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質疑応答

おばんです。どこからどう見ても山本左足です。まいど。

ブログの更新が久々すぎて、何をどうしたらいいのか、画面の見かたとか操作方法から確認し直さなきゃいけないありさまでした。ツイッターでは相変わらずウダウダ言ってますが、ブログしか見てなかった皆様、もし居たらご無沙汰しております。生きてますよ。

さて。今回は、SNSで頂いた質問に答えたいと思います。いつもはツイッター上で答えているのですが、今回はちょこっと長くなりそうなので。

さて本題。「質問箱」という、匿名での質問を受け付けられるSNSのサービスがあるのですが、そこに先日こんな質問を頂きました。ちょっとコピペしてみます。・・・のつもりでしたがコピペできないっぽい?じゃあいいや。これでお仕舞い。またねー!
って訳にもいかないので、手書きで写してみます。

はじめまして。唐突に失礼します。これまでご自身の短歌に全く想定していないような批評が来たり、批評内容に納得がいかなかったりというようなことはありましたか。もしあったとすれば、その時気持ちをどのように切り替えたのでしょうか。(以下略)

という内容の質問を、ペンネーム「小麦粉で出来た練り物が主食になると思ってるような奴らは全員粉まみれになっちまえ。もっと米を食え!」さんから頂きました。嘘です、匿名です。粉まみれにはならなくていいです。俺が米好きなだけです。あと、質問の全文はツイッターで確認してください。ちなみに、手書きで写してるので誤字などある場合は俺の責任です。すまぬ。よろしくお願いします。

さて、今回はこの質問に答えてみたいと思います。

俺も負けじと唐突に失礼しますが、クイズです。「角」と聞いて何を連想しますか?

牛にはもちろん角があります。しかしキリンにもあります。鹿にもあるし、サイにも羊にもありますね。動物だけでなく昆虫にも角はあります。カブトムシだけでも、種類によって角の形は様々です。触角も角の一種と捉えれば、更に多種多様。
それだけではなく、例えば鬼にも角はあります。ユニコーンにもあるし、お嫁さんにもありますね(角隠しなんて被るぐらいだし)。バファローマンにもある。

そのどれが正解か、クイズの答えが分かりますか?答えは「つの」じゃなく、「かく」のつもりだった、です。将棋の。もし当たった人がいるなら、あなたは相当なへそ曲がりですね。嫌いです。

言葉というのは、物凄く不完全な道具で、誤解されて当たり前、誤読されて当たり前なんです。「つの」ほど極端でなくても、たとえば「夕陽」でも、この言葉で想起する情景は各人各様で、おそらく誰一人として同じ夕陽を見てはいない筈なんです。気の置けない友人と話していても、時折(こいつ、俺の言いたいことを何一つとして理解してねえ…)と思うことって無いですか?俺はしょっちゅうあります(大概は自分が口下手なせいですが)。

歌会に出たことはほとんど無いのですが、出ると、いかに自分の歌が他人に理解されないか、というのを嫌と言うほど感じます。出来るだけ平易な言葉を使って、誰でも理解できるように詠んだつもりでも、100%狙い通りに読んでもらえることなんて無いんです。それはもう、当然なんです。だって一人ひとり別の人生を歩んできた、別の人間なんですから。

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

という、塚本邦雄さんの有名な短歌があります(「日本人靈歌」より)。俺も若い頃から好きな歌なんですが、この歌が天皇制、特に昭和天皇についての歌である、という解釈があることは不勉強ゆえにわりと最近まで知らなかったんですよね。

俺個人としては、天皇とは関係なく、「皇帝」の名を持つペンギンに日本は狭すぎる、第一暑すぎる、というような意味合いで解釈していて、そこに中二病的な「俺みたいにBIGな人間は、日本のスケールには収まらないぜ!」みたいなのを重ね合わせたような内容、として読んでいたのです。

不勉強ゆえの知識不足は大いに恥じるところですが、一首の解釈として、どちらが正しい、ということは無いと思うんですよ。文芸作品の解釈は人それぞれで良いんです。

小説家の野坂昭如さんは、自作「火垂るの墓」に関して、娘さんから「この小説を書いた時の作者の気持ちを答えろ、って宿題が出たんだけど、お父さんはどういう思いでこの小説を書いたの?」というような質問をされて、「締め切りに追われてヒーヒー言いながら書いた」というような答えを返した、と生前言ってましたね。うろ覚えですが。ちなみに、娘さんはその答えを書いて先生にバツを付けられたようです。そりゃそうだわな。似たようなエピソードは宮本輝さんなんかも書いてますね。「彗星物語」だったかな。

そんな訳で。作者の意図が汲み取られていない、と感じても、そんなに気にすることはないし、むしろ(そんな風に思う人もいるんだなあ。面白いなあ)ぐらいに考えていたほうがいいと思います。もちろん、意図を汲んでもらえなかったのは自分の未熟さも原因だと真摯に受け止めて、更なる研鑽を積むのも忘れてはいけませんが。偉そうに言ってるけど出来てないな、俺。

逆に、自分が読者の立場で考えると、人の短歌を読んで正しく解釈出来ているか、と言えば、全然そんな自信湧いてこないじゃないですか。でも良いんです。何度も言いますが、解釈は人それぞれ。たとえ作者の考える「正解」じゃなくても、自分の考えた「正解」だって紛れも無く正解なんです。そこに明白な悪意でもない限り(作者を嫌っている人が、悪意で捻じ曲がった解釈をするケースもあるのかも、というのをふと思いましたが、そんなのは無視するに限ります。一々付き合ってやるほど暇じゃない)。

「みんな違ってみんな良い」なんて言葉はキレイゴトっぽくてあまり好きじゃないんですが、でもやっぱりそうなんですよね。というか、それこそが創作の原点なんじゃないかと思います。誰もが同じものを同じように見ていて、皆が同じように感じる世界なら、一々「俺はこう思うぜ!俺にはこう見えてるぜ!」と主張する意味が無い。創作と言うのは「自分が他人とは違うことを再確認し続ける作業」でもあるのです。さびしいけれど。

人間は一人一つの島を持ち生涯そこを出られぬ定め

って感じです。上手いこと答えられてればいいのですが。どれだけ言葉を尽くしても、(これだけ言えば分かってもらえるだろう)という自信はなかなか得られません。言葉というのはつくづく不完全な道具だと思います。でも、だからこそ楽しい。簡単に伝わらないからこそ、伝わった時の嬉しさは他に換えられない。そういうもんじゃないですか。

そんなこんなでまたいつか。おやすみなさい。
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夏のおわりに

おばんです。月末が締め切りの原稿がまったく進んでない山本左足です。

短歌を12首作らないといけないのですが、数日格闘した結果あと12首足りない、というところまで来たので、まあ順調に停滞中ということで。

気晴らしにツイッターを眺めたりしていたら、久々にちょっと書きたいことが出てきたのですが、ツイッターに書くには長すぎるのと、以前も何度か似たようなことを書いている筈なのでこっちに書いとくことにしました。

足が遅いことがコンプレックスだった。
どのくらい遅いかというと、小一から高三まで、出場した競走は短距離・長距離を問わずすべて圧倒的な最下位だったほど。小学校五年生だか六年生だかの時、学年の女子で一番足の遅かった子と100m走で勝負してまあまあ大差で負けたほど。
跳び箱も跳べなかったし(今も跳べない)、逆上がりも出来なかった(今も出来ない)。運動能力は全体的に劣っていたが、その中でも走力は人一倍劣っていた。

まあそれでも、運動会や体育祭はまだマシです。チーム対抗戦だから、クラスの運動ガチ勢が結託して「アイツを出すと負けるから、極力レースに出さないようにしよう」という話になるので。大勢に影響しない競技にいくつか出て、あとは眺めてるだけでよかった。それに比べると、年に一回ある校内マラソン大会はまあ辛かったですね。何が辛いってアレですよ。今でもあるのだろうか、あの「○年生最後のランナーです!みなさん、拍手で迎えましょう!」ってアナウンスされるやつ。全校生徒の前で晒し者にされる、例のやつ。「健闘を称えて」みたいなお題目なんでしょうが、実際そういう気持ちで拍手してる人なんか居やしないんですよ。これを読んでる皆さんも身に覚えがあるでしょう(拍手する側として)。
あれは辛かった。苦手ジャンルで醜態を晒している無様な姿を全校生徒に見られるわけですから。「あんなの恥ずかしくて耐えられないよ。俺だったら絶対自殺するね」と聞こえよがしに話してる同級生が居たりして。情けなくて情けなくてねえ。
こっそり家の周りを走って練習したりもしました。でも、そもそも運動能力が低いので焼け石に水。仕舞いには走るという行為自体がトラウマみたくなってしまい、(走ろう)と思っただけで心臓がドキドキしたり汗が噴出してきたりするようになってしまいました(人前だといまだにそうなります)。

いざマラソン大会が近づくと、数日前から眠れなくなり、ご飯も食べられず、一日に数回トイレで胃液を吐いてました。いやマジで。それでも休むと「ビリになるのが嫌で仮病を使った」と同級生に陰口を叩かれるので、それが嫌で頑張って出てたのですが、一度どうしても無理で見学させてもらったことがありました。
すると、不思議なもので・・・いやまあ今にして思えばさほど不思議でもないんですが、見学と決まった途端に体調が回復して、クラスメイトが走り始める頃にはほぼ平時と変わらないまでになってしまいました。めでたしめでたし、とは勿論ならず、その後に来たのは(体調が悪いなんて気のせいだったんだ。本当は何ともなかったのに休んでしまった。俺は最低の卑怯者だ)という強烈な自己嫌悪。
その自己嫌悪をもう二度と味わいたくなくて、翌年は強行出場したのですが、ゲロ吐きながら走ってたところを止められて保健室に搬送されるという始末。もっとスポーツマンになりたかった。
(またビリになってあんな辱めを受けるくらいなら、もう死んでしまいたい)と思ったことも何度かあります。当時の自分にもう少し行動力とやる気があったら実行していたかもしれない。ダメ人間でよかった・・・かどうかは定かでは無いですが。

さて、何だって突然こんな話を長々書こうと思ったかというと、「夏休みが終わる時期に自殺する子どもが多い」というのを度々目にしたからです。「学校行きたくねーなー、嫌だなー」というのは、この時期日本中の全学生が思っていることでしょうが、その思いが度を越して心身に変調を来たすまでになったら、無理せず親や教師に相談してほしい。相談された側も「どうせ学校に行きたくない一心で仮病を使ってるんだろう」なんて決め付けずに相手してほしい。まあ実際「学校行くのかったりーから嘘ついて休んでスプラトゥーン2やってよ」というケースもあると思うんで、見極めは難しいところではあると思いますが・・・。

最後にひとつ言わなくてもいいことを言っておくと、一ヶ月も休みを満喫していながら学校には行きたくない、というのは、どんな理由があってもやはり良くない事だとは思います。でも自殺はもっと卑怯だと思うので。卑怯者として死ぬよりも、捲土重来を期して生きているほうがいいです。たぶん。

生きてればいつでも死ねるでも死ねば生き返れない だから生きよう

大昔作った下手な短歌で無理やりまとめw まああれだ、生きてれば良いこともあるかもしれませんしね。俺には無かったけど。いやこれからあるんですよきっと。もう40歳過ぎたけど。まだこれから良いことがあるんですって!まだ!これから!あるんだってば!!!

はー、死にたい。

まあそんなこんなで皆さん良い秋を。おやすみなさい。

5年目

おばんです。東日本大震災から5年目の3月11日。

更新するとは言ったものの何を書こうか考えがまとまらず、いっそ悪ふざけして馬鹿なことを書こうか、とも思ったのですがそれもままならない生真面目さ。結局何を書くかまったく考えてません。どうしよう。

何か思いついたことを適当に書こうと思います。とはいえ、震災当時の思い出話なんかは以前ツイッターとかにも書いたりしたので繰り返しになっちゃうし。うーむ。

俺の地元は岩手県の沿岸北部にある洋野町というところです。まあ実家のある辺りは合併前は海無し村だったので、厳密には沿岸って感じでもないんですけど。夏に帰省すると実家の軽トラ(笑)を疾走させて海までドライブするのが楽しみなのですが、去年は天気が悪くて、鉛色の海がどんよりうねっているのを車窓から眺めるしか出来ず残念でした。一昨年は天気が良くて、海浜公園で海水浴する人たちをのんびり眺めながら缶コーヒーを飲んだり、靴を脱いで波と戯れたりできたのですが。今年はどうだろう。

去年の7月18日付けの河北新報の記事によると、岩手、宮城、福島3県には震災前およそ70ヵ所の海水浴場があったそうですが、去年海開きをしたのはそのうちのたった14ヵ所だそうです。記事はこちら

いつも通り海水浴が出来るということすら、実は相当な幸運なのかもしれない。というようなことを考えたり。

そういえばZUU onlineというサイトで発表された「東北住みたい街ランキング」で岩手県大船渡市が3位に入っていてちょっと驚きました。大船渡には学生の頃だか社会人なりたての頃だかに一度行ったことがあるだけ。それも、ただ単に「行ったことが無いから行ってみようぜ!」というノープランの遠征で、ほとんど車から降りもせず丸一日かけて大船渡~陸前高田あたりをぐるぐるして日帰りするという、若さゆえの過ちとしか言いようの無い旅で行っただけ。陸前高田市なんてただ通過しただけで降り立ってすらいないんじゃなかろうか…。いつかもう一度行ってみたいものです。

しかし、実際問題沿岸市町村は住むには結構不便だと思います。俺の地元あたりもそうだし、県南も、たぶん。たとえば大船渡には盛岡からバスが出ているのですが、片道3時間、往復券で4000円かかるらしい。ちなみに盛岡ー仙台間が高速バスで片道2時間半、往復券5000円です。大船渡ー仙台も調べてみたのですが、バスだと片道4時間(一関市を経由するため時間がかかるらしい)、往復券4400円。大変だ…。

そういう地理的な不便さはありますが、たとえば子育てをするのにはいい環境だろうとは思います。海もあり、山もあり。沿岸は雪もそんなに積もらないし、近隣の住人も(顔見知りには)優しい人が多いです。たぶん。

震災復興。何となく言ってますが、実際問題、どうなれば「復興」なのだろう。死んだ人は戻ってこない。仮に街並みのすべてを震災前の状態に戻せたとしても、住人が戻ってこなければただのゴーストタウンになってしまう。岩手県沿岸の市町村は元々過疎化が進んでいた地域。そして主要産業の農業や漁業も、放射能の影響で大きな被害を受けている。

考えれば考えるほど暗い気持ちになってきます。俺には何も出来ないんですが。ただ、以前と同じように、というのではもうダメなんだろうなあ、と思います。「復旧」ではなく「復興」。それこそ「住みたい」と思えるような新しい街を、可能な限り早く作って欲しいと思います。

・・・ふう。あまり暗いことを考えるとダークな感情に支配されていけませぬ。次からはまた下らないことを書いていこうと思います。短歌も載せようかと思ったのですが特に思い浮かばなかったのでまた今度。そういえば「震災詠」についてもちょっと書きたいことがあったんですが・・・、いまさら思い出してもなあ。もう疲れちゃったんで、覚えてたら来年にでも書きます。

あらためて、亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。では、また。おやすみなさい。

バレンタインはロッテの元監督

おばんです。

昨日はバレンタインデイでしたね。皆さま無事チョコレートは貰え(渡せ)ましたか。

毎年この日になると、俺の中の思春期の亡霊が騒ぎやがるので困ります。

さて。今日はバイトの子が「バレンタインって差別だと思うんすよ!」と吼えていたので、(そうかー、チョコ貰えなかったのかー)と思いつつ、そのことについてちょっとだけ考えてみようと思います。

バレンタインデーが差別であるかないか、という点については、そんなもん、差別に決まってるじゃないか、と思います。チョコレートを貰える人と貰えない人がいる、それが差別でなくて何なのか。

しかし、世の中そんなもんだろう、とも思うのです。競走すればトップとビリが出る、勉強すれば天才と馬鹿に分かれる、面白いやつもいればつまらないやつもいる、オシャレな人もいるしダサい人もいる、それと同じようなもんでしょう。中にはビリでつまらなくてダサいやつも居るわけです。…俺だ(学力は普通)。

本人ではどうにもならない点で差別が生じるのは良くない。生まれがどうの、性別が何だ、肌の色がどうした、とか。そういうのは良くない。家が貧乏だから進学できないとか、障害があるから仕事が無いとか、そういうのも、出来る限り何とかして欲しい。

だけど、能力によって差が生じてしまうのは、これはもうしょうがない。徒競走で全員並んでゴールさせたりとか、テストの結果を非公開にしたりとか、そんなのは馬鹿馬鹿しいと思う。そういう風にして「出来ない奴」のほうの水準に合わせるのが正しいというなら、世の中のイケメン全員に逆整形手術を受けさせて俺と同じ程度の顔面にしろよ。じゃないと不公平だろ。・・・というのはもちろん冗談ですが。

努力ではどうにもならない世界に俺たちは生きている。外見だけではありません。運動能力だって勉強だってそうです。どんなに頑張ったって100m10秒で走るのは無理だし、東大に入るのも無理だ。だからって終わりでも何でもなく、スキマ産業的に、自分の居場所をどこかに見つけて生きていくことができれば、それでいいじゃないか、と思います。

だから、バレンタインデイがいかに差別的なイベントであろうと、それはもうしょうがない事と諦めるしかないんじゃないかと。この世に数限りなくある差別のなかのひとつに過ぎません。華麗にスルーして、自分が輝ける瞬間をいつまでも待ち続けるのみ。いつかチョコをくれる人が現れるかもしれないし、現れなくても…、ね、まあ、しょうがないよね。

美醜の感覚は個人差が大きいので、美男美女だから得だとは一概に言い切れないところもありますが、それでも、100人中90人が美しいと思う顔に生まれた人と、90人が不細工だと思う顔に生まれた人とでは、冗談でなく住む世界が違うだろうと思います。美男子の見る世界がどんなもんか、単純に興味はありますが、それを見る術はない。独りワイルドサイドを往くのみ。

大丈夫、モテなくて死んだ人は居ない(自殺を除く)

それはそうと、以前ヤフー知恵袋か何かで「バレンタインデイを祝日にすべき」というような意見を見て、えらく感心した記憶があります。もちろん回答者の方も冗談半分で言っているのだとは思うのですが。バレンタインを祝日にすれば、チョコを貰う(渡す)相手の居る人は勝手にデートでも何でもすれば良いし、そうでない人は家に引きこもっていてもいい。祝日だと思えば穏やかな気持ちで過ごせるだろうし、何より、学校や職場に向かう際に否応無く抱いてしまう淡い希望と、それが案の定無に帰した時の砂を噛むような気持ち、あれを味わわなくて済むというのが大きい。自分がモテないことを自覚して、不細工沼で泥水をすすったり苔を食べたりして大人しく過ごしている心優しきモンスターたちが、年に一回、自分の境遇の惨めさを改めて思い知らされて、沼の水がちょっとしょっぱくなる日。バレンタインはそういうイベントと化してしまっている面がありますが、休日になればそれもだいぶ改善されるはず。バレンタインデイは祝日にしましょう。

ところで女子にとってはバレンタインってどういうイベントなのだろう。まあ男子同様「人による」と言うしかないんだろうけど、そんなに楽しいばかりじゃないですよね、きっと。渡したい相手に既に彼女が居たりとか。切ない。そんな時は俺にくれるといいですよ。俺は義理チョコ撲滅論者ですが、義理の欠片も無い人から人情でチョコを貰うぶんには随時受け付けております。バレンタインデイに限らず1年24時間受付中です。よろしく。

差別するとかされるとか、そういう話は非常にデリケートなんで出来れば避けたい話題のひとつなんですが、思いつきでちょっと書いてみました。そんなに複雑なことは考えてなくて、単に、頭がいい人はどんどん出世して世の中を豊かにしていけばいいし、運動が得意な人は金メダルを取れればいいなあと思うし、美男美女はモテればいいじゃない、と思う、という、単にそれだけの話です、はい。

さすがにもういい歳なので、バレンタインだからって一々反応したくないんですよ、本当は。いい加減思春期の亡霊を成仏させたくて、お経代わりにこの記事を書いてみました。首尾よく浄化が済めば、来年以降はグダグダ言わなくなっているはず。乞うご期待。

では、おやすみなさい。

タダより高いものは無い

おばんです。

俺が創刊号から参加させて頂いている同人誌『短歌雑誌ネガティヴ』の最新號がこのたび発行されました。ただ今無料配布の受付期間中です。1/24(日)まで。申し込みはこちらからお願いします。→ https://system.formlan.com/form/user/negative57577/1/
※受付は終了しました。たくさんの申し込みありがとうございました。

さて。「無料配布」というと、色々な反応をされます。多いのは「タダで送ってもらうなんて申し訳ない」というもの。次いで「無料は良くない。ちゃんと制作費に見合った金額を付けるべきだ」というもの。あと、はっきり言われたことは無いですが「タダなんて怪しい。何か良からぬ企みがあるに違いない」というのもおそらくあるでしょう。

それらの意見や疑問に対して、ちょっと思うところを書いてみます。ただし、以下の文章はあくまで俺個人の考えであって、『ネガティヴ』編集部の総意ではないことをあらかじめお断りしておきます。

まず、俺は同人誌でも何でも、一般に広く配布する創作物にはなるべく適正な価格を付けて売るべきだ、と思っています。なんでもかんでも無料にすればいい、とはちっとも思わない(慢性的に金欠なので、そうなってくれればいいなーと妄想したりはしますが)。

ではなぜ『ネガティヴ』は無料なのか、というと、一言で言うと「作る側のワガママ」なのです。

『ネガティヴ』は元々、発行部数10部くらいのぺらっぺらのコピー誌でした。参加メンバーが一人一冊ずつ手にして、それで終了、というような。そんなものを何でわざわざ作ったかというと、ひとえに自己満足の為、それ以外の何物でもないのです。

仲間内でわいわい言いながら楽しむためのアイテム。男子校の文化祭みたいなノリで出来たのが『ネガティヴ』のはじまりです。初期メンバーは全員共学でしたが。女子に縁の無い者達の集まりだったもんで・・・、ほっとけ。

何で短歌雑誌になったかというと、その時興味を持っていたのが短歌だった、というそれだけのことで、時期が違えば全然別ジャンルの本を作っていたでしょう。つまり我々にとって一番大事だったのは「やりたい放題やれる場所」であって、その表現方法が短歌だったのは必然ではなく偶然なのです。はっきり言って。

なので、『ネガティヴ』の理想は「優れた短歌同人誌」よりも「世界一面白いチラシの裏の落書き」だったりします。そこを全力で目指している。

お金をいただく、というのには、当然責任が生じます。買ってくれた人に満足してもらえる内容にしなければいけない。今の方向性でそれをやるということは、当然「優れた短歌同人誌」を目指す、ということです。チラ裏ではなく。

しかし我々はそこを目指したくはない。むしろもっとチープに、もっとくだらないものにしていきたい。

「優れた短歌同人誌」なら世の中にたくさんあります。そして、もし我々がそこを目指したとしても、一流のクオリティには決して辿り着けないでしょう。そういうのは読者として楽しむだけで充分です。

参加者が増えたおかげで、収録されている短歌の質・量ともに格段に向上しました。それには感謝しかないのですが、個人的には、もっとどうしようもない失敗作や破滅的な実験作がたくさん載っていてほしい。そしてそれを全力で小馬鹿にしたい!というのは冗談ですが、もっと雑多な作品の受け皿になりたいな、という思いは常にあります。求む下手な人!(本音です)

そんなわけで、『ネガティヴ』のネガティヴたるところは、短歌よりもむしろ、チープな表紙や、真っ直ぐ刺さっていないホチキスや(歪んでるのは大抵俺が留めたやつです。済まぬ)、ネガティヴ/ポジティヴ通信などの短歌以外の記事、そして全体に漂うぐだぐだ感だったりします。

そして、その味を出すためには無料でなければならないのです。お金をいただく事のプレッシャーに、我々が耐え切れない。

発行者であるロンドン太郎氏は言うに及ばず、編集に参加しているカリフラ沢ブロッ子氏や海野もずく氏の金銭的負担は少なからざるものがあるようですが、俺の懐はまったく痛んでいないので何の心配も要りません(おい)。皆もネガティヴ編集部に励ましのお便りを出そう!

…しかし揃いも揃ってなんてペンネームだ。馬鹿の集まりか。

そんなわけで、『短歌雑誌ネガティヴ』は今のところ無料なのです。ただし、俺への個人的な献金はいつでも受け付けてますので何卒よろしく。そんなこんなで今日はこれまで。おやすみなさい。
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