ヒミツにしているorしていたこと

おばんです。

相変わらずネタ不足の昨今。FC2ブログのトラックバックテーマが、タイトルの「ヒミツにしているorしていたこと」だったので、今日はそれについてちょこっと。

といっても、秘密・・・。何ですかね。性格が暗いのも運動が苦手なのも貧乏なのもモテないのも既に周知の事実だし。実はロボットだということは博士かラ絶対に人にばらすなとキツく言われテイるのデここには書けナ・・・あ!

ートイウ冗談ハさてオき(充電ガ切れかけテ思考が鈍くナっていたようだ。危ない危ない)、秘密というと、短歌をやってることは家族や親戚、仕事関係者などには秘密ですね。何となく、明かすと嫌な気分を味わわされそうな気がする。基本的に人間を信じていないので。俺の本名を知っている人間で、「山本左足という筆名で短歌をやっている」ということを知っている人は両手の指で数え切れるほどしか居ない筈。一昨年ぐらいまでは片手で余裕だったんですが。ちょっと増えた。

逆に言うと、本名は秘密です。ありふれた名前ならいいんですが、苗字がちょっと特殊で、おそらく同姓同名は一人も居ないと思うので、すぐに個人を特定されてしまうのは嫌だなあ、と。基本的に人間を信じていないのでw

短歌をやるときは常に筆名です。ずっとこれでやってきた以上、短歌を続ける限りは背負っていくべき名前だと思っている。テレビにも雑誌にもこの名前で投稿してますし。以前はこのふざけた名前のせいで採用されないのでは、と勘ぐっていた時期もありましたが、NHK短歌でもちゃんとこの筆名で採用されたので、これまで不採用だったのは単に下手だったからだというのが証明されて一安心でした。それはそれで別の問題が出てくるんだけどね・・・。より深刻なやつが。

たまに筆名に関して(俺のに限定してじゃなく、一般的に)、似合うとか似合わないとか、面白いとかつまらないとか、いろいろ話題になったりすることがありますが、個人的に、公序良俗に反しない限り誰がどんな筆名を名乗ろうが別に良いと思ってます。作風と筆名がミスマッチでも、その事で話題になったりするならマイナスばかりでもないでしょう。ただ、「筆名=偽名、匿名」にはならないよう、一生名乗り続けて欲しいとは思う。なので、出来ればずっと名乗り続けられるような筆名を付けるほうがいいでしょうね。俺はその点正直微妙w まあ、先にも書いたようにずっと名乗っていくつもりではありますが。

筆名の由来も書こうかと思いましたが、今日のタイトルに合わせて一応ヒミツにしておきます。気が向いたらそのうちしれっと書くかも。では、また。おやすみなさい。
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ボクシングの話とか

おばんです。

今日は暇だったので、本棚の奥から新井英樹のボクシング漫画『SUGAR』と『RIN』を引っ張り出してきて読んでいました。掲載誌の廃刊などで二度の移籍を経た挙句打ち切りのようなかたちで終わった残念な作品ですが、今読んでもやはり傑作。

ところで、ボクシング漫画といえば『あしたのジョー』、『がんばれ元気』、『はじめの一歩』が定番中の定番で、それに次ぐのが『リングにかけろ』だと思うのだが、それにあと一つ足して「日本五大ボクシング漫画」にしよう、と思うと途端にどれを入れようか迷う。上記の新井作品に加え『神様はサウスポー』、『B.B』、『太郎』あたりが候補だろうか。『1ポンドの福音』、『ヘヴィ』、『のぞみウィッチィズ』、『満腹ボクサー徳川。』あたりも捨てがたいところだけれど(今挙げたタイトルのおおまかな内容と作者名を全部分かる人が居たら相当なボクシング漫画好きだと思う。自分で書いていて何だが俺は『のぞみウィッチィズ』の作者の名前が思い出せなかった・・・。野部利雄)。松本大洋の『ZERO』もいいね。

一応このブログの趣旨に沿って短歌の話もしておくと、歌人の中では福島泰樹が大のボクシング好きで、『黄金の獅子 辰吉丈一郎へ』(彩流社)や『荒野の歌―平成ボクサー列伝』(河出書房新社)などの著書もある。※辰吉丈一郎の氏名の表記は本来のものと異なります。wikiを参照→こちら この辺はちゃんと変換出来るようにしてほしいなあ。せめて「つちよし」くらいは。

敗北は骨身に沁みてさはあれど
仁王立ちせよ黄金の獅子 (福島泰樹)


『黄金の獅子』の裏表紙に載っている短歌・・・らしいです。あやふやで済みません。この本、昔持ってたのですが引越しの際に手放してしまって。今回は「版元ドットコム」というサイトの紹介文を参照しました。

他にもあるかも、と思って国文社の『現代歌人文庫 福島泰樹歌集』もちょっと見てみました。余談ですが、この本を探していたら同じく国文社現代歌人文庫の春日井建歌集も見つかったのだけど、俺は一体いつこれを買ったのですか。いや、嬉しいけども。買った覚えの無い歌集がたまに部屋の奥から見つかるのが本当に謎。そのうち永田紅の第一歌集なんかも見つからないかな。ちょっと期待している。

それはさておき、福島泰樹の他のボクシング短歌は手元にある中からは確認できませんでした。無念。「リング」という単語の出てくる歌は何首かあったのですが、それがボクシングのリングなのか確信が持てず。そういえばボクシングやプロレスの「リング」っていつから四角くなったんですかね。昔は名前の通り円形だった筈なんですが。今度調べておきます(ブログに書くかはともかく)。

明日(あした)のジョー昨日の情事蓮の花咲いてさよなら言いし女(ひと)はも (福島泰樹)

括弧内はルビ。以下も同様です。ブログに短歌を引用する時の表記方法、いろいろ悩みます。青字にしてみたり太字にしてみたり。作者名の入れ方もこれで良いのかどうか。そもそも縦書きのものを横書きにしている時点で改変だと言われても仕方が無いわけで・・・。なるべく誤表記の無いよう、失礼の無いようにしたいです。試行錯誤の日々。
『あしたのジョー』と言えば、もう一首有名な短歌がありますね。

ああ夕陽 明日(あした)のジョーの明日(あした)さえすでにはるけき昨日(きのう)とならば (藤原龍一郎)

ところで、漫画『あしたのジョー』の「あした」は平仮名なのに対し、これらの短歌ではどちらも漢字表記となっている。二人の歌人がそのことを知らない筈はなく、だからこそわざわざルビを振っているんだと思うのですが、そもそも、何で最初から平仮名表記にしなかったのか。個人的には、よど号ハイジャック事件の際の犯人の声明「われわれは明日のジョーである」が意識されているのでは、と思うのだけどどうだろう。特に藤原作品。『現代の短歌 100人の名歌集』(三省堂)の解説に、三枝昂之が藤原龍一郎の第一歌集を評した言葉として 「この一冊で短歌は、多分やっと全共闘とおさらばできる」と分析。 と書いてあるので、既に定説なのかも知れませんが。

ああ、本当ならここから実際のボクシングの話題に移ろうと思っていたのですが、思ったより長くなってしまったのでそれはまた今度。今年は村田諒太はもちろん、オスカー・デラホーヤのゴールデンボーイプロモーションズと契約したらしい亀海喜寛にも注目してます。ディフェンスの上手い選手が好き。世界チャンピオン同士になった内山と三浦の再戦、ロマゴンと井上尚弥の対戦なども、もし実現したら香川照之ばりに大騒ぎすることになりそう。井岡一翔でも。

そんなこんなで、そろそろ寝ます。今日はもっと早く寝るつもりだったんだけどなあ。

サンド・バッグに力はすべてたたきつけ疲れたり明日のために眠らん (佐々木幸綱)

やっぱり「ボクシング短歌=男歌」という感じですね。女性の詠んだボクシングの短歌もあれば読んでみたいものですが。そもそも女性のボクシングファン自体とても少なそう。面白いのに、ボクシング。

では、おやすみなさい。

N短の

おばんです。

PCのフォルダを整理していたら、NHK短歌に投稿して没になった歌、および作ったものの投稿しなかった歌(と思われるもの)が何首か出てきたので、今日はそれらを置いておきます。没歌供養。

明日からもこうして坂を上るだろう君が死んでも僕が死んでも

土曜日は気まぐれな恋人のよう すぐに去るなら来ないで欲しい

梅雨明けを喜びながらゴトゴトと歌う我が家のボロ洗濯機

触らずに夢か否かを知るすべが無いままずっと触れずにいる

筆跡が分からぬように電報で友に送った犯行予告

永遠の美の象徴となるだろうあなたを今夜剥製にする

悪夢から別の悪夢に乗り換えて風の冷たい夜明けの街へ

お隣の留学生が巻き舌で何度も何度も言うアリガトウ

石橋を叩き落して渡らない君のそういう強さが好きだ


おそらく、実際に投稿したのはこの中の二首か三首で、あとは出来が気に入らなかったりしてお蔵入りにしたやつだと思うのですが、じゃあ投稿したほうの短歌はどこに行った?と思って探しても見つからない。そっちは書き残してないのかも知れません。相変わらずズサンな管理。

そんなこんなで、さっき急にやる気になってN短に投稿してきました。今年初投稿。今年はコンスタントに投稿しつつ、ちゃんと書き残しておこうと思います。ある程度没歌が溜まったらまたこのブログに載せるのでお楽しみに。

ではまた。おやすみなさい。

冬眠暁を覚えず

おばんです。

暖冬とはいえそれなりに寒い毎日。雪が降るまではわりと毎晩筋トレやランニング(2kmくらい)をしていたのですが、冬は寒いのと歩道が凍って滑るのとで怠け気味。というかほぼ何もしてない。

思うに毎年こんな感じで、一年かけて多少すっきりしても冬になると元通りのわがままボディ。継続は力なり、とはよく言ったものです(反面教師的に)。
だいたい、中年ともなると最早「何もしない=ゼロ」では無いのです。何もしないのは明白にマイナスで、多少努力してようやく収支がプラマイゼロになる。だらだらしているとあっという間に借金ならぬ脂肪がかさんで、文字通り首が回らなくなる・・・って、まだそこまでは太ってないけども。

文章も筋トレと一緒で、日々鍛えてないとどんどん書けなくなる。まあこれは歌でも楽器でも何でもそうだと思いますが。脳の回転は日に日に鈍くなる。物覚えは悪くなるし、人名や商品名などがパッと出てこなくなるし。イメージ通りの文章をスラスラ書けないときの悲しさは、まさに体力の衰えを実感したときのよう。つらい。

短歌はある種現実との漫才みたいな側面があって、現実が様々なタイプのボケ(疑問、違和感、憤りなど)をかましてくるのに対して「何でだよ!」とツッコミを入れるわけですが、喩えツッコミをしたいのに適当な喩えが思い浮かばないとか、そういうのも増えてきました。とはいえ、昔なら悩まなかったようなところで一度立ち止まって考える癖がついたおかげで、新たな発見があったりより良い表現を思いついたりするようになったので、これは年の功というやつだと思っています。他はともかく短歌だけは、20代の頃より30代になってからのほうが格段に上手くなった。「上手くなってあの程度かよ」とか言っちゃダメ!傷つきやすいんだから!

ともかくもう少し暖かくなったら深夜のランニングを再開したい。日本一足が遅いので人に見られる時間帯は絶対に走りませんが(誇張ではなく、俺は今まで自分より足の遅い人に出会ったことが無い。女子を含めても、たぶん)。もうすぐ会社の健康診断があるんですよ・・・。酒量が劇的に増えているのも含め、いろいろ心配。とりあえず寝ます。不眠症は最近ちょっと改善されてきた感。平均4時間くらいは眠れるようになってきた。
人間も冬眠する動物だったら良かったのに、と時々思う。そのまま永眠してもいい、俺は。おやすみなさい。

象とか冗談とか地震とかの話

おばんです。

同人誌に載せる原稿をようやく書き始めたところ。今月末が締め切りなのですが、このペースなら何とか間に合いそう、という目処が立ったので一安心です。が、投稿する短歌が無い・・・。どうしよ。

原稿は短歌の感想文を数ページ分書くだけのものなのですが、これがなかなか難しい。短歌を読む→心が揺れる。ああ良いなあ、と思うのだけど、その揺れがどんな感情に起因するのかさえ自分自身で把握できないこともしばしば。理解していることも、それを他人にちゃんと伝えるのは非常に困難。どうにも、盲人が象を撫でているようで。牙がある、耳が大きい、足が太い、肌がざらざら。どれも間違いではないけれど、じゃあそれでちゃんと伝わったと言えるのか、と。せめて「鼻が長い」ぐらいは言わなきゃダメなんじゃないか、と。
ああ、いや、象じゃなくて短歌の話でした。

誰かが言った面白い冗談に対して、「こんなの何が面白いんだよ」と言っている人に、「これこれこう」とただ説明するだけじゃなく、出来れば一緒に馬鹿笑いしたい。そういう感想文が書きたいと思うのですが。
ああ、いや、冗談の話じゃなく短歌の感想文のことです。

つまり、震度5とか6じゃなくて、震度1弱くらいの揺れでも感じられるようになりたいです。「今、一瞬揺れたよね」っていうのに対して「うん、揺れたね」って言えるような、そういう風に読みたい、ということです。
いや、地震の話じゃなくて心の揺れの話ですよ。わかりにくくて申し訳ない。

まあ何だかんだ言っても、最終的にはいつものように「笑える悪ふざけ」を目指すわけですが。まともな評なんか書けないですし。
『短歌雑誌ネガティヴ』最新號は順調に行けば春ぐらいに出るんじゃないかなーとうっすら期待する程度。ま、ちょいと覚悟はしておけ。出来たらまたツイッターで告知すると思いますんでよろしくお願いします。
このブログでもまた近況報告するかも。では、おやすみなさい。

日本(嘘)昔話「でたらめ太郎」

おばんです。

相変わらずネタが無いので、何か面白いことでも無いかと思って昔書いていた日記を読み返してみました。
ん~・・・、死にたくなるよね。
何が酷いって、まずノート自体が猛烈に黴臭いw保存状態最悪。勿論内容も酷い。基本的に本読んでゲームしてだらだらして腐ったものを食って寝込んで下らない小説とポエムを書き散らかした挙句「死にたい」って言ってるだけの毎日。・・・って今と一緒か。

現存するもので一番古い日付は1996年の2月2日。約20年前か・・・!すげえな。20年の月日を感じさせないくらい、今と大差の無いダメっぷりでした。というか、成長してねえ。

この頃の日記は全部手書きで、乱筆乱文な上に漢字を書くのが面倒臭いらしく平仮名混ぜ書きなのでえらく読みづらい。しかも内容がまあ青臭い。20歳なるならずのガキが書いたものなんで当然っちゃあ当然ですが。

せっかくだから何か晒して自虐的な気分に浸ろうと思ったのですが、あまりに痛々しいものが多くて・・・。読んでるうちにどんどん悪酔いしてきたのですが、97年10月1日に何故か唐突に「日本(嘘)昔話 でたらめ太郎」というのを書いていたので、それを晒して絶望的な気分になろうと思います。皆も俺の自虐プレイに付き合ってね。

「でたらめ太郎」

昔々、あるところにでたらめ太郎という、それはそれはでたらめな男が住んでいました。
この男は物凄くでたらめな男でした。どのくらいでたらめだったかというと、生後三年で身長175cm、体重68kgの大きさに育ったにも関わらず離乳食しか食べられない程です。しかもグルメでした。
そんなでたらめ太郎も何やかんやあって立派な大人になり、村から一歩も出たことがないくせに三ヶ国語をマスターするまでになりました。よく聞くとでたらめでした。
まあとにかく、大人になった太郎は両親に恩返しをすべく鬼ヶ島へ鬼退治に行くと言い出しました。両親は必死で止めました。なぜなら鬼ヶ島の鬼は前の年にすでに桃太郎に退治されていたからです。それでも太郎は出かけていってしまいました。勿論きび団子は無しです。
勇んで出発したでたらめ太郎ですが、勿論鬼ヶ島の場所なんか知りゃあしません。けどそんなことはおかまいなし。太郎はずんずんと進んで行きました。勘で。途中でわらしべを拾いましたが、「肉体疲労時の栄養補給!」と言って食べてしまったので長者にはなれませんでした。わらしべ効果で全ステータスがMAXになりましたが、だからと言っておはなしに何の進展もありません。
そのうち海に着きました。海では亀がいじめられていたので、一緒になっていじめていたら別の太郎(例の)にこっぴどく叱られてしょんぼりでした。
それから更に数年飲まず食わずで旅を続けたでたらめ太郎ですが、ある日ついに気づきました。「腹減った!」
ふと見ると、鶴が罠にかかって泣いていたので、これを食おうと思い立った太郎。慌てふためいた鶴が「食べないでください。助けてくれたら恩返ししますから」と懇願したので助けてあげたら、鶴はばたばたと飛び去り二度と戻ってきませんでした。でも何となく良いことをしたような気分で、太郎は旅を続けたのでした。
そんな太郎の旅も、ついに終わりを迎えるときがきました。突然死で。
めでたし めでたし。


創作意欲を拗らすとこういう事になってしまうという、症例。皆さんはこうなる前に適切な治療を受けてくださいね。お兄さんとの約束だよ。

ちなみに別のノートを見てたらこんなポエムも書いてあった。これはいつ書いたものか不明。20~21歳くらいだと思う。

英国紳士のたしなみを 叩き込まれた柔道家
午後の紅茶を邪魔されて 投げるは折るはの大惨事
オリンピックをふいにして 自棄食い自棄酒ブルマ泥棒(ドロ)
生まれ故郷に別れを告げて ひとり悲しき逃避行
霧の都に行くはずが 巡り巡って石油王
そんな模様のステンドグラスが見つめる中で結婚式

夢はでっかく大統領 次いで世界を征服し
美女一万人大ハーレム 酒池肉林の夢のあと
宇宙(そら)に散らばる星々を 宝石箱に詰め込んで
海と大地と人々を 我が手のひらで躍らせる
そんな少年(おとこ)のドリームに 猫型ロボがブチ切れて
降るは涙か血の雨か それでは唄っていただきましょう!

ネコと思って飼ってたヤツが 肉を貪り食らうさま
母もとうとう耐え切れず 「ウチじゃ飼えぬ」と放り出し
初め騒動次静寂 響くサイレンうなり声
一部始終を見ていた父が 「今日も巨人は勝つかなあ」
遠い目をして呟いた 赤い夕陽が沈みます


・・・紙一重だな!よし、寝る!またネタに困ったらここから何か拾おう。みんなも日記とかは捨てないほうがいいぞ。おやすみなさい。

ダラダラと音楽の話とか(完全なる無駄話)

おばんです。

暖冬とは言うもののそれなりに寒い日が続いてますね。イカがお寿司ですか・・・じゃない、いかがお過ごしですか。

今日は本当なら『歌壇』を買ってきて、発表になった歌壇賞についてあーでもないこーでもないと言ってやるつもりだったのですが、生憎目当ての書店二つとも売り切れで買えず。しょうがないのでCDを二枚買って帰宅しました。金が無い・・・。

ちなみに今日買ってきたCDはROTH BART BARON(ロットバルトバロン、と読むらしいです)の『The Ice Age』と曽我部恵一さんの『My Friend Keiichi』の二枚。ロックが好きです。あとフォークソング。たまにブルースとかカントリー、稀にJ-POPも。稀にとか言ってるけど実は関ジャニ∞の『言ったじゃないか』が好きで一時期仕事中ずっと脳内で歌っていたのはナイショだ。歌詞がうろ覚えだったので「♪感染してないって言ったじゃないか~」とか「♪実家が金持ちだって言ったじゃないか~」とか歌ってたのはもっとナイショだ。ファンの人ゴメン。あれってクドカン作詞で峯田和伸作曲なのね、今知った。

両親が民謡好きだったので、子どもの頃は民謡を習っていて、年に二回ぐらい八戸市の公会堂で歌ったりしてました。一度その発表会の模様が地元のラジオで放送された時、たまたま俺の歌ってるところがオンエアされたりとか。過去の栄光。幼少の頃はド田舎で育ったので、よく犬を散歩に連れていきがてら大声で歌をうたったりしていて。自慢じゃないですがその頃は美声だったと思うのですが、高校に入って下宿してから歌う機会が無くなったせいですっかり下手になりましたね・・・。やっぱり、常日頃鍛えてないと何でもすぐに衰える。民謡は今でも好きです。好んで聞くほどではないですが。

あと好きだったのはサザンオールスターズ。ひとつのバンドのアルバムをデビューから全部買い揃えたのもサザンが最初。最近はあまり熱心に聴かなくなっちゃいましたが。今年出るらしいニューアルバムも楽しみですね。

中学~高校の頃はブルーハーツがとにかく好きで、甲本ヒロトが神様だった。あとは深夜ラジオの伊集院光。この辺は今でもずっと聞いてる。三つ子の魂百まで(若干違う)。

高校生の頃ほかに熱心に聞いたのはビートルズとかクイーンとか、ストーンズとかエルトンジョンとかボブディランとかクラプトンとか。キャロルキングとかニールヤングとかサイモンガーとかカーペンターズとかですね。古い。日本のだと矢沢永吉とか浜省とかジュリー(沢田研二)とか。この辺カラオケの十八番です。古い。世間的には小室(哲哉)ファミリーが全盛の頃ですよ。

あとは何だろう。大学生の頃、深夜の工場でパチンコに使う液晶モニター用の板を検品するバイトをした事があるのですが、その時有線でひたすらジュディマリの『そばかす』とイエモンの『JAM』が流れていたせいで、その二つのバンドの曲を聞くと薄暗い工場のおんぼろPCでただただ液晶板をスキャンしていたあの日々を思い出します。バイトをサボって、スキャン用のPCに何故かインストールされていた横スクロールのシューティングゲームをこそこそプレイしていて済まんかった。

その後何だかんだあって今では「日本のロック4、UKロック3、USインディ2、その他1」ぐらいの生活になりましたよ。何だかんだの部分に関しては気が向いたら書くかも。とりあえずロットバルトバロンは良かったです。期待以上。フリート・フォクシーズとかボン・イヴェールとか好きな人におすすめ。曽我部氏はこれから聞きます。

生まれてはじめて生で見たライブがサニーデイサービスのもので、それ以降ほぼ毎年かかさず曽我部氏のライブを見続けてきたのだけど去年十数年ぶりに途切れてしまった。今年はどうなるやら。

では寝ます。おやすみなさい。

珍しく時事ネタ(浅い)

おばんです。

桑田佳祐が昨年末の年越しライブと紅白歌合戦で軽率な行いをした、として謝罪したという件に関して。結構大きく報じられていたのにちょっと驚きました。1ファンとしては「何を今更」というような気がしたのだけど。だって、軽率って言うならこの人いつも軽率じゃないかw
たまたま万人受けするメロディと詞を書く才能があっただけで、パフォーマーとしてはいつも行き当たりばったりな行動をとる人だというのは、ファンにとっては周知の事実だと思っていたんですが。
紫綬褒章の件についてはどう弁明しても桑田さんが悪い(というか、軽はずみだ)と思うけど、紅白のちょび髭まで批判の対象になっていたのは正直意外。『ピースとハイライト』の歌詞の解釈も含めて、桑田流に言えば「ただのちょび髭じゃねえか、こんなもん」だと思うんだけどなあ。
ちょび髭=ヒトラー、と短絡的に結びつける人が多いのも少し意外。ハゲヅラかぶって「加トちゃんリスペクト」って言っておけば丸く収まった・・・のかな?そういえば『マンピーのG★SPOT』を歌ってた時はハゲヅラをかぶってましたね。
まあ、ああいうのは見た人、聞いた人がそれぞれ自由に解釈すればいいのです。ただ、「全ての人に受け入れられる表現」なんてこの世に存在しないわけで、何をしたってそれを不快に思う人は居る。加トちゃんのハゲヅラだって、実際にハゲている人にとっては不快だったかも知れないし。
だからってそれを一々謝罪してたらキリが無いんじゃない、と思うのだけど。
ただまあ、「怒られたら即謝る」という、これまた軽率な感じが桑田佳祐の持ち味だと思うので、サザンに関してはこれでいいんだと思っている。評価が上がりも下がりもせず。

ただ、「オレが不快に思ってるんだから謝罪しろ!」というような風潮に、更に拍車がかからなきゃいいなあ、とは思う。
というか、仮に桑田の言動が明白に「反日」的なものだったとしても(俺個人は全然そう思わないけれど)、反日的な表現をする自由だってあるんですよ。嫌ならチャンネルを変えればいい。俺ならそうする。

・・・とか長々と語りつつ、俺は実は年越しライブも紅白も見てないんスけどね。ファン失格。済まぬ。

いろんな考えの人がいろんな表現をして、それに賛同する人も居れば反発する人も居て当然。そういうのが健全な社会だと思う。ただ、「不快即排除」という風にはならないといいなあ、という話。チャンネルを変えればいいんスよ。

そんなこんなでそろそろ寝ます。おやすみなさい。

うたらばブログパーツ短歌

おばんです。寒い。

ネタが尽きた頃にやってくるうたらばブログパーツ短歌投稿作のまとめ。今回のテーマは「明」です。

明らかにそれが嘘だと知りながら優しく撫でる不確かな傷

「今ならば星にも手が届く」等と供述しており動機は不明

憂鬱は夜明け間近の空の色古いノートを燃やして待とう

明日こそあなたに会える日なのかもしれない 明日までは生きよう

今日になるまた今日になるいつまでも明日が来ないまた今日になる

行き先を「明日」と言えばカーナビは「るーとガ見ツカリマセン」とポツリ

夜型の俺にはきっともう二度と来ないのだろう明るいあした


前回の「赤」に続いて今回も不採用。無念。いろいろ、考え直す時期にきているのだろうなー。短歌の作り方とか。

ところで今日スーパーでみかんを安売りしていたので久々に買ってきたんですが、8個もあるからしばらく大丈夫!と思っていたら30分足らずで5個食ってしまった。何故こんなにも中毒性があるのか。実は麻薬物質でも含まれているのでは。「ミカニン」みたいなやつが。
すでに6個目が食いたくてならないのですが、明日ヨーグルトに入れて食う予定だったのでグッとこらえてそろそろ寝ます。おやすみなさい。

はるか沖から

おばんです。

1994年の12月28日、青森県と岩手県を中心に大きな地震があったのを覚えているでしょうか。「三陸はるか沖地震」。Wikipediaによると、マグニチュードは7.6で最大震度は6。死者:3人 負傷者:784人とのこと。あらためて見てみると、結構大きな被害ですね。

当時俺は大学1年生で、冬休みなので実家に帰省していました。俺の実家は岩手県と青森県との県境付近にあり、はるか沖地震で一番被害が大きかった八戸市とは目と鼻の先(自動車で30分程度)なので、あの時は結構ビビリました。まあ、ビビっただけで済んだのは運が良かったわけですが。

年が明けてからも余震は続き、これもwikiによると7日の朝にM7.2 震度5の地震が再び八戸市を襲っています。テレビのニュースでも連日八戸の被害の様子が報道されていました。

が、暇と若さを持て余したあの頃の俺にとってはそんな惨状すら馬鹿騒ぎのタネでしかなく。「今度八戸さ遊びに行くべ。地震の爪痕を実地検分してくるんだ!」などとほざいて、友人と八戸に行く約束を取り付けました。

(※実はこの辺りの記憶は自分でもかなりあいまいなのです。大学の冬休みはそろそろ終わる時期のはずだし、友人も地元を離れて別の大学に通っていたので、このタイミングで一緒に八戸に行っているのは辻褄が合わない。友人と「地震の爪痕を検分」しに行ったのと八戸の地下街にある油っぽい中華屋でテレビを見たのは事実なのですが、それぞれ別の日だったのを多分ごっちゃにしてしまっている。なので、以下の部分に関しては基本的に創作だと思って読んでください)

約束の日。俺は完璧に寝坊してしまって、バタバタと着替えを済ませ、バスに飛び乗って何とか時間通りに八戸へ。何をして遊んだかは憶えてないのですが、まあ、どうせ本屋に行ったり古本屋に行ったり中古CD屋を物色したりしていたのでしょう。初売りなんてもうとっくに終わっていて、街はすっかりいつもどおり。バカ面さげてブラブラしてるのなんて暇な大学生ぐらいのもんで、拍子抜けするぐらい穏やかな午後でした。それでも、時折歩道のタイルが剥がれていたり、アスファルトに亀裂が入っていたり。地震以降休業しているらしい店なんかも何軒かはあって。そういうのを見るたび「あー」とか「おー」とか言いながら。

特に行くアテも無くなった頃、寝坊して朝食をとっていない俺は空腹が限界に達して、ふたりして地下街にある薄暗い中華料理屋に入りました。俺は炒飯と麻婆豆腐、友人が何を注文したかは憶えてません。料理が運ばれてくるまでの間、手持ち無沙汰のまま、何気なく店内の壁に取り付けられたテレビを見て、俺は絶句してしまった。ぽかーんとした顔でテレビを見ている俺に友人が「何、知らなかったの?今朝方関西のほうで大きな地震があって・・・」と説明してくれました。それを聞きながら俺は(怪獣が通った後みたいだ)などと、不謹慎極まりないことをぼんやりと考えていたように思います。阪神淡路大震災の発生から、十時間ほどが経過していました。

・・・以上創作終わり。実際俺はなぜあの時八戸に居たのだろう?一緒に居たのは果たして友人だったのか、それとも弟とかだろうか。ちょっとした謎。

ともかく、あの時食べた炒飯がやたらと塩辛かったこと、麻婆豆腐が水っぽいくせに無茶苦茶辛かったことと共に、あの日のあの映像は、おそらく一生消えない記憶として脳に焼き付いています。

さて、あれから二十年。実はつい最近になってようやく、八戸市の有志の方々が兵庫県へ、震災発生直後から4度に渡って救援物資を送る活動をしていたという事を知り、改めて、自分の無知と無恥を思い知った次第。逆に東日本大震災のときは兵庫を含め全国から多数の支援をいただき、俺の勤めている店にも関西からトラックで救援物資を持ってきてくれた人が居ました。ありがたい。

いつも傍観者でしかない俺にできる事なんてたかがしれているけれど、せめてこういう節目の時だけでも、今後大きな地震や災害が起こらないよう祈るぐらいは欠かさずにやっていきたい。・・・って、本当は昨日書くはずだったんだよこの記事。ダークネスに堕ちて断念してしまったけど(済まぬ)。

誰だっていつも笑顔で暮らしたい 無理と分かっていれば尚更

ではそろそろ寝ます。おやすみなさい。

こんな夜は

理由なく勃起する日があるように理由なく死にたい夜もある

おばんです。今夜のオイラは無闇に鬱なので、すきま風が心を吹き抜ける前に眠ってしまおうと思います。
せっかくなんで過去にツイッターに流した短歌の中からいくつか暗~いやつを載せておくので、気が向いたら読んで「あちゃー・・・」って思えばいいじゃない。こんな風にはなりたくないって、思えばいいじゃない・・・。

深海に淡いひかりが揺れているこのままみんな死ねばいいのに

いつどこで誰が死んでもいいように学生服は男女とも黒

死ぬのにはちょうど良い夜だと思う 思うんだけど面倒くさい

理想的絶望として訪れる死を想うとき揺れる木蓮

こどもには教えたくない事もある 鬱という字は29画

痛いのは嫌いなんです欲しいのは傷ではなくて傷跡なんだ

死ねばいい、死ねばいいって何回も呟く主語は付けないままで

誰だって不幸が好きだニュースでは誕生なんて報道しない

しあわせな結末でいいぼくが見ることの出来ない映画はぜんぶ

夜がきて螺旋階段降りていくようにまた鬱 生きていかねば


あー、なんか、たくさん並べると麻痺してきますね。意外と大したことない感じ。良かった良かった。

では、おやすみなさい。

ぼくのかんがえた『アナと雪の女王』

おばんです。

家に据え置きのテレビが無くなって早一年(壊れたのです・・・)。ただでさえ人とあまり接しない暮らしをしているので、いよいよ浮世離れしてきた感のある昨今。これではイカン!と思うので、世の中で流行っているものを見てみよう、と思い立ちました。

どうも世間では『アナと雪の女王』という映画がブームだという話を風の噂に聞いたので、今度見てみるつもりなのですが、せっかくなので、大まかなストーリーを予想してみようと思います。ちなみに、俺が『アナ雪』(って略すとツウっぽいよね!)について知っているのは、

・たぶんヒロインの名前がアナ
・なんか寒そうなところが舞台
・雪の女王がいる
・松たか子が『レリゴー』を歌っていた
・May Jもレリゴーを歌っていた

ということのみ。ちょっと手がかりが少なすぎますが、頑張って予想してみようと思います。

まず物語の舞台ですが、あれは北海道か東北でしょうね。あったかい地域の人は知らないでしょうが、冬になれば大半の場所はあんなもんです。予想はズバリ盛岡市玉山区の藪川。青森県を差し置いて本州で一番寒いところなんで、多分間違いないでしょう。氷上わかさぎ釣りで有名な岩洞湖のあるところです。

たぶん凍りついた岩洞湖の上で松たか子がレリゴーを歌うんだろうな(ネタバレ)。

ヒロインの名前「アナ」は本名なのか、それともニックネームなのか。日本人だとしたら本名はおかしいので、多分ニックネームなのでしょう。確か金髪だったと思うので、おそらく不良少女なんだろうな。

何となく設定が固まってきた。

ヒロインは藪川中学校に通う14歳(cv松たか子。中学生役なのか!頑張ったなあ)。幼い頃、両親と岩洞湖でわかさぎ釣りをしていた時に穴から湖の中に落ちて九死に一生を得たというエピソードがあり、それを母親が事ある毎に話すので、いつからか「アナ」というニックネームで呼ばれるようになる。本人はそんなおしゃべりで過保護な母親に反発して、髪の毛を金髪に染め、標準語を話すなど、学校でも話題の問題児。担任で数学教師の雪野凍湖(ゆきの・とうこ 30歳独身。cv能登麻美子)からも目の敵にされている。雪野は厳格な教師で、生徒からは「雪の女王」とあだ名されていた。
ある日田舎の中学校に都会から男の子(cv山谷祥生)が転校してくる。普段から標準語を話すなど都会に憧れのあるアナはすぐに彼と仲良くなり、いつしか恋に落ちてしまうのだが、転校生は何と「雪の女王」凍湖に恋をしてしまう。嫉妬に狂うアナ。
そんな中、学校の行事で岩洞湖(どうでもいいけど、正式には岩洞ダムというダム湖だったりします)に一泊二日のわかさぎ釣りキャンプに行くことに。自らの幼少期の体験を基に、事もあろうに凍湖を穴に落として亡き者にしようと企むアナ。一方転校生はこの機会に凍湖に告白しようと、二人きりになる切っ掛けを探していた。夕刻、転校生は意を決して凍湖に告げる。「どうしても相談したいことがあります。今夜、二人きりで会ってくれませんか」。その場面を偶然目撃してしまうアナ。
そして、夜。岩洞湖のほとりで落ち合う二人。そしてそれを物陰から見つめるアナ。凍湖への想いを告げる転校生に、雪の女王は優しく諭す。「気持ちは嬉しいけど、あなたとは年齢も違いすぎるし、それに、生徒とは付き合えないわ。それから・・・、私、あなたはアナちゃんと付き合ってると思ってたんだけど」その言葉に動揺を隠せない転校生。そして覗き見しているアナ。「アナはいい子だと思うけど。でもオレ、髪の毛を金髪にしたりとか、ああいう不良っぽい子はちょっと・・・」言いよどむ転校生に凍湖は言う。「アナは良い子よ。芯が強くて、真っ直ぐで。ちょっと不器用だけど、優しい子だし」思いがけない言葉に唖然とする転校生とアナ。「・・・オレ、先生はてっきりアナの事を嫌ってるんだと思ってました」と言う転校生に、微笑みながら「嫌いよ。ナマイキだもの」と告げる凍湖。
動揺のあまりふたりの前に姿を現してしまうアナ。盗み聞きしていた気まずさと、言い表せない恥ずかしさや嬉しさ、そして怒りの入り混じった複雑な感情に混乱して、アナは氷上を闇雲に走り出し、結果、凍湖を落とそうと思って仕掛けた罠に自分から嵌って水中に落ちてしまう。
溺れながら、アナは夢を見た。両親が自分の名前を呼んでいる。泣きながら、何度も、何度も。「泣かないで」と声をかけようとするのだが声が出ない。母が声を嗄らしながら自分の名前を懸命に叫んでいる。ああ、そうか。あの時からだ。母さんがあたしにやたら過保護に接するようになったのは・・・。
目を覚ますと、転校生が自分にキス(人工呼吸)をしていた。その傍らで、泣き叫ぶようにアナの名を呼ぶ凍湖。「気が付いたぞー!」「良かった!」と口々に言うクラスメイト達。遠くから響いてくる救急車のサイレンを聞きながら、アナは思う。(ああ、何であたしは無意味に反発してばかりいたんだろう。こんな優しい人たちに囲まれながら)
そこで突如アナにスポットライト。突然起き上がり『レリゴー』を歌い踊るアナ。クラスメイトや教師、救急隊員までも巻き込んでの一大ミュージカルシーン。映画のクライマックス。
その後何やかんやで皆しあわせになりましたとさ。スタッフロールのところでMay Jが『レリゴー』を歌っているよ。

ふう。ここまで分かってしまった今、もう実際の『アナ雪』は見なくてもいいかなって気分になったのですが、気付いたら近所のツタヤで100円レンタルになっていたので今度見てみます。俺の予想では五割くらい合ってるんじゃないかと思うのですが。

まだ見てない人にはネタバレしてしまって申し訳なく思っている。では、おやすみなさい。

去年の呟き

おばんです。

書きたいことを好きなように書いていくとどうしても長文になってしまうので、ちょっとブログの更新が面倒になってきている昨今w
とはいえ更新しないでいるのも何となく気持ち悪いので、とりあえず何かしら書きます。

ツイログという、ツイッターでの呟きをまとめて見られるサイトがあるのですが、そこに「一年前の今日のツイートを見る」というのがありまして。何かネタになるかと思って見てみました。

今年取ればいいべさ。

えー、去年の1月14日、18時54分の呟き。歌壇賞のことだと思われます。今回も取れなかったんで、次取るよ。

狙ってヒットが打てるタイプではなくて、ホームラン狙いのフルスイングがポテンヒットになったり痛烈なゴロになったりしている感じ。結果的に自分としてはそこそこの打率を記録しているつもりだけど、狙い通りの打球ではないので何となくモヤモヤする。…あ、短歌の話ね。

20時24分。「自分としてはそこそこの打率」って書いてるけど、これは正確には「自分の実力からすれば出来すぎた成績」って言いたいんだと思う。実際2013年は結構良かったし。去年はイマイチだった。今年はどうなるやら。アウトになるにせよ、ちゃんと自分の狙った方向に打球が飛ばせればなあ、というのはいつも思う。短歌の話。

ケータイの電池が切れて寄る辺無く冬の夜空にベテルを探す

短歌も詠んでた。これは忘れてたなあ。「ベテル」はオリオン座のベテルギウスですね。超新星爆発するとかしたとか話題の。ガンマ線バーストの影響はどうやら地球には無いらしいので一安心。爆発の光が地球に届けば、一説には半月よりも明るく、数ヶ月は昼間でも見えるようになるとか。どうせなら生きてるうちに届けばいいけど。ロマン。

コエカタマリンでアルファベットを固めた時、一番攻撃力の高そうなものはどれか考える。Aが使いやすそう。真ん中の棒を持って、尖ったところで敵を突く。逆にBは使いづらそうだ。どこを持てばいいのかさえ良く分からない。

1月15日18時22分の呟き。何言ってんだこいつ。「コエカタマリン」はドラえもんに出てくるひみつ道具の一つで、名前の通り声を固まらせることができるもの。実際、持ちやすさも考えるとIとかJが一番使いやすくていいんじゃないか、と思うんだけどどうだろう。どうでもいいよね。コエカタマリンに関しては、以前も

コエカタマリンが実用化されたとして、固まった声は最初音速で飛んでいくわけだ。材質が何かは分からないが、小学生が乗っても壊れないんだから結構頑丈な素材だろう。点の殺傷力なら「ス」「マ」辺り、面の破壊力なら「へ」が良さそう、という所まで考えてようやく気付いた。これ、どうでもいい。

とツイートしている。ちなみにこれは2013年の4月22日。なんで兵器とか武器としての使用法しか考えられないのか。ストレスなのか。

風呂の中でいろいろ考えた結果、一番性格が良さそうな平仮名は「お」に決定しました。曲線の多さと、一本筋の通った横棒が決め手となりました。おめでとうございます。

というのも見つけた。2014年3月21日。おめでとうございます。ただ、その直後に

武器として使用した場合、最も殺傷能力の高い平仮名は「く」か「し」だという結論に達した事をお知らせして、俺は寝ます。というか流石に寝ないといけない。おやすみなさい。

とも。どうしても武器にしなければいけないのか。というか、文字を武器にするって何なのか。意味が分からない。

まあ、いいや。それでは「小学校で習うもののうち一番殺傷能力の高そうな漢字」を考えながら、俺は寝ます。おやすみなさい。

帰宅途中で詠んだ歌

地獄にも階層がありここはまだ割とやさしいタイプの地獄

しあわせになる義務なんか無いのだし僕と一緒に踊りませんか

どこへでも行けと言われてもうどこへ吹けばいいのか分からない風

最期まで雪でいたいと願うのは罪なのだろう 融けて流れる

灯のともるすべての窓が寂しげに俺の自由を羨んでいる

おそらくは一生歩くことのない路地の手前で今夜も右へ

世界中すべての鍵にぴったりと合う鍵穴があるはずの夜


おばんです。
今日はとても良い天気だったので、洗濯したり掃除したりレンタルしてきたまんがを読んだりのんびりお昼寝をしたりしているうちに・・・、休日が、終わってしまったよね・・・。
どこにも出かけないのも淋しい気がして、夕方から古本屋と(エロ)DVD屋を冷やかしてきました。収穫は特に無し。ローソンで肉まんとピザまん、ホットコーヒーを買って、行儀悪く食いながら歩いて帰ってきました。上の短歌はその帰り道に即興で詠んだもの。散歩しながら、その場その場で目に付いたものを適当に歌っていくのが好きです。普段はひたすらインドア生活な中で、唯一のアウトドアな趣味。街を歩いていると、ふと昔作った歌が頭に浮かんで、(ああ、そういえばこの辺りを散歩してるときに詠んだ歌だった)と思い出したり。そういう瞬間が好きです。

こういう、何でもないような日の記録というか、そういう短歌ももっとたくさん詠んでいきたい。たまたま目にした物とか、くだらない思いつきとか、その一瞬だけの閃きとか。そんなものに形を与えることが出来るのも、短歌の良さだと思います。

ダーウィンが来ない!

おばんです。

こないだ、久々に見た『ダーウィンが来た!』が面白かった。
「日本の動物スペシャル」だったかな。エゾシカの牡の生態が、まんまヤンキー(不良学生)のようで興味深かった。喧嘩のときの威嚇の仕方とか。
(角が)大きいほうがエライ!ってのも、まあ何と言うか、どんな生き物でも男って馬鹿ね、という感じで。

ネイチャー番組を見ていると、時折子どもの頃のことを思い出します。
自慢じゃないけど相当なド田舎で育ちましたから。
ニワトリを飼った経験を持っている人は居ても、飼っているニワトリをイタチに食われた経験を持っている人はそうそう居ないはず!
戸棚に放置したまま忘れ去っていたカマキリの卵から大量の子カマキリが産まれて、リビングが阿鼻叫喚の地獄絵図になってたりとか。母が半狂乱で掃除機で吸ってましたね。なんか、いろいろ済まんかった・・・。

俺の家はバスとかが走っている舗装道路から外れて、砂利道を100mほど行った先の突き当たりにあって。家の裏には畑と田んぼ、あとは延々と森。俺が小さい頃は、狩猟が解禁になると、雉撃ちのハンターが森にやってきて猟銃をタンタン撃ってましたね。そんな中で普通に遊んでいたんだから、何と言うか、・・・大らかな時代ですね。うん。

たぶん五歳か六歳の頃、父がどこかからチャボを二羽もらってきて、俺と兄に名前を付けろと言ってきた。チャボはニワトリの一種。その時飼っていたのは羽毛が茶褐色で、軍鶏と同様に闘鶏なんかにも使われてました。今は闘鶏もまったく行われなくなりましたね。地域によって違うのかもしれませんが。
さて、チャボの名前。兄は当時読んでいた『あしたのジョー』から取ってジョーと名付け、俺もそれをマネして好きだった絵本『ジャックと豆の木』の主人公ジャックの名前を付けました。
玄関を出ると、狭い庭の中に父が趣味で作った(のかなあ)小さな池があり、その向こうにちょっとした畑、その更に向こうに、当時は牧草地があって古いサイロが残ってました。祖父が牛を飼っていた頃の名残。そこにジョーとジャックを放し飼いにして、俺は弟や友だちと一緒に、これも当時なぜか飼っていたウサギ(名前忘れた)を追い掛け回したり耳を掴んで振り回したりして遊んでました。動物虐待ですね。弟がウサギに指先を甘噛みされて救急車で運ばれていったりしたのも、今となっては良い思ひ出。

季節は秋。家に帰った俺がいつものようにジャックと遊ぼうと思って鳥小屋に行くともぬけの殻。まあ放し飼いはいつものことなんで、あまり気にせず庭を突っ切って畑のほうへ行ったのですがジャックは居ない。ならば、と思って田んぼのほうに向かいました。ちょうど稲刈りが終わった直後で、父がひとりで後片付けをしていたように思います。
刈り取った稲の切り株(?)が等間隔に並んでいて。そういえば俺はそれを踏んで歩くのが好きでした。こう、何ともいえない踏み心地。
しかしその時の俺には、踏み心地を楽しむ余裕などありませんでした。田んぼの端っこに何か居る。ネコくらいの大きさの、金色の小動物。野生のイタチを見たのはその時がはじめてでした(その後も二度しか見てませんが)。イタチは、俺の気配を察したのかクルッとこちらを振り向きました。と、その口許に・・・

首根っこを噛まれてぐったりとしたジャックが、ぶらぶらと揺れていたのです。ギャー!

「うわー!ジャックー!」と叫んだ俺の声を聞きつけた父が、作業に使っていたスコップを振り上げてイタチに向かっていったところ、イタチは、下手したら自分の体よりも大きな獲物(鶏肉)を引きずりながら、猛烈なスピードで山へと去って行きました。野生動物の底力。

ちなみにもう一羽のジョーですが、後に行方不明→数日後、傷だらけで近所を歩いているのを見つける→手当ての甲斐も無く絶命、という数奇な一生を送ることに。美味しかったです・・・。ん?いやジョーは食べてないかもなあ。

そうそう、兄の友人からひよこを貰ったこともありまして。あれは小学校の低学年の頃ですね。母がひよこを飼うのに反対したので家では飼えず、母屋と田んぼの間にある離れで暮らしていた祖母のところに預けたのです。祖母もかわいい孫の頼みとあって、きちんと世話をしてくれて、無事立派なニワトリに成長したのですが、そうなると最早祖母のところに置いておくわけにもいかず。「母さんが飼うなと言ったのはひよこだ。でもこれはニワトリだ。だからセーフ!」という良く分からない理屈を自分の中だけで作り上げて(小学生ってそんなんだよね)、祖母のところから連れ出したソイツを(名前付けてたっけかなあ?)庭に解き放ったのでした。
さて数日後、俺が小学校から帰ると、父が玄関先で何かをしている。「ただいまー。お父さん、そったどごで何してだの?」と俺が方言丸出しで尋ねると、ニワトリの首の付け根(頭部分)と首の付け根(胴体部分)を両手で持ってキュっと捻った状態で振り返った父が「おー、おかえり!今夜ぁ、鶏鍋だぞ!」と、いい笑顔で言い放ったのでした。その時の父があの日のイタチに見えたとか、見えないとか。鶏鍋は美味しかったです。

ところでこの鶏鍋の話、間違いなく俺の経験談なはずなんですが、以前「すべらない話」か何かで誰か(おぎやはぎの矢作だった気がする)がすごく似たような話をしてまして。その時は(へー、似たような経験してる人っているんだなあ)ぐらいに思っていたのですが、徐々に、(ひょっとして俺の記憶のほうが捏造で、実際は経験していない事だったらどうしよう)と思い始め、今ではちょっと疑っています。自分の経験が信じられないって怖いですよ。

あー、そんなこんなで今日はここまで。ネイチャードキュメントはまだまだネタが豊富にあるので、そのうち思い出したらまた書きます。「別に読みたくねーよ!」って言われるかもしれませんが、俺が書きたいだけなんでそれは関係ないです(超ワガママ) ただ全部が事実とは限らない、かも・・・。

酒飲みながら無駄話を書いているときが一番楽しい。創作意欲がこっちにばかり向いていて、肝心の短歌をあまり詠んでないのが玉に瑕ですが。でもまあ楽しいほうがいいやね。

では、おやすみなさい。

求婚の広告

『求婚の広告』

恥ずかしい話だけれどこの歳になるまで「愛」を見たことがない

君じゃなきゃ駄目なんだけどその君がどこの誰だかまだ分からない

男とは収入じゃなく顔じゃなく心でもないという人求む

人偏の漢字すべてに人偏をひとつ書き足す 恋をしている

マリオよりクッパみたいに強引に君をさらえる人になりたい

眠ってる君のおでこにマジックで「嫁」って書いて消さないでおく


・・・いろいろ考えたけど、結局旧作の寄せ集め。

えー、さて。このタイトルからもお分かりかと思いますが。

俺も結婚したい!ということで、本気で結婚相手を大募集します!

条件はたった二つ!

1、日本語が話せる女性

2、お金持ち


このたった二つだけです!先着1名!

なぜお金持ちじゃなきゃ駄目かというと、俺が極貧だからです。そして今後も稼げる見込みが無いからです!その代わり、条件さえ満たしていれば他は文句言いません。国籍も問いません。「婿にこないか からだひとつで」という、気前のいいお金持ちの女性はどこかにないですか。どこへでも行きますよ。一人暮らしが長かったおかげで、炊事洗濯家事育児、何でもひととおりこなせますよ!子ども好きなんで子連れでも大丈夫・・・ただ、中学生とかだと俺のほうが人見知りを発動してしまう恐れがありますが。

資産家の皆さん、近い将来娘さんが財産目当ての男に騙されない保障はありますか?その点、俺なら安心ですよ。なぜなら、俺はハナから財産目当てだという事を公表しているからです!騙されようがない!どこの馬の骨とも分からない奴に呉れてやるくらいなら、ここの馬の骨はどうです!?

・・・ふう。ちょっと満足した。

恋愛弱者だというだけでいろいろ風当たりの強い世間。結婚してない人は出世できなかったりするそうですよ。まあ俺には関係の無い話ですが。お金持ち云々の与太話はさておき、日本もこの先貧富の格差はどんどん拡大していくと思うので。結婚したい男女が経済的理由で出来ない、ということがあまり増えなきゃいいなあ、とは思うのだった。

まあ、しあわせになる奴らの事はもうどうでもいいんですよ。

しあわせな連中に血反吐はくような思いで「おめでとう」って言いながら、ふと自分の境遇を鑑みて死にたくなるような夜に、後ろを振り向くと更に暗い顔をした俺が懸命に呪いの言葉を吐いていて、それを見て、ちょっとだけほっとする。その為の存在として、俺はここに居る。

大丈夫。お前は最低でもないし、最悪でもない。

なぜならば、ここに俺が居るからだ!


ところで、山之口貘が『求婚の広告』を書いたのは確か32歳のときで、実際に結婚したのはその翌年だったように記憶している(ちょっとググってみましたが確信できなかった。何にせよプラスマイナス1歳くらいのはず)。俺の身の回りでも、ちょうどそのくらいの歳に結婚云々の話題が多くて、それがようやく落ち着いたと思ったら職場やらツイッターやらで結婚云々の話題が・・・。いつになったら落ち着けるのやら。

あ、結婚相手は大募集中ですからね。先着1名、無期限ですよ。

まあ、「結婚=しあわせ」じゃないことぐらい、この歳になりゃあ嫌でも承知せざるを得ないんですが。

だとしてもありますように君だけに陽が差すようなその一瞬が

はー。やっぱり、当初予定していたように「結婚しようよ!」テンション全開で行ききることが出来なかった。全力疾走し切らないと面白くならないのに。微妙。正直、済まんかった。オナニーして寝る。おやすみ。

とんかつ弁当にソースではなく醤油が入っていた事に関する愚痴

おばんです。

ようやく体調が良くなってきたので、またぼちぼち更新していこうと思うのですが、しかしびっくりするほどネタが無い。ここ数日のトピックで一番大きいのは、仕事の休み時間にスーパーで買ってきたとんかつ弁当にソースが入ってなくて替わりに醤油が入っていたことですよ。非常に不本意でしたよ。

・・・うん。終わっちゃったな。やっぱり、これだけでブログを一つ書こうとしたのが間違いだったか。こうなったら、
この不本意さを、短歌で表現したいと思います!(今決めた)

醤油しかなくて醤油をかけて食うとんかつの衣の味が微妙

ふむ。まずはストレートに味に言及してみましたが、微妙。結句の「微妙」が特に微妙。いやまあ実際微妙な味だったんですが、ここは「まずい」って言い切ったほうが伝わる気がする。

醤油しかなくて醤油をかけて食うとんかつの衣部分がまずい

ちょこっと改良。たいして良くないけど、まあ、こんなもんでしょ。

とんかつに醤油を付けて寄越すような弁当会社は滅びればよい

弁当会社(というかスーパーの惣菜コーナーですが)への怒りを露にした一首。しかしあまりにも大げさか。そこまで怒ってないし。いや結構怒ってるけども。

とんかつ弁当に醤油を入れた子の時給が少し減りますように

ぐらいか。うむ。

止むを得ず醤油をかけたとんかつの衣に染みていくやるせなさ

ああ、これはいかにも俺が作りそうな歌だ。って、まあ俺が作ってるんですが。
しかし「やるせなさ」がいただけない。初句「止むを得ず」で不本意感は出ているので、あとは情景描写だけで読者に「やるせなさ」を感じさせる工夫が必要。

止むを得ず醤油をかけたとんかつの衣部分がしみじみまずい

微妙よな。

とんかつに醤油をかけて食っているアベノミクスなんて知ったことかよ

おお、これも俺が作りそうな歌だ!(いや、作ってるんですが)
「上の句と下の句を一見関係無さそうに装って読者の想像に委ねるパティーン」ですね。これは結構汎用性の高い創作方法だけど、下手すると「は?コイツ何言ってんの?」ってなるので注意が必要。ちなみに上の歌は森本平さんの

ラーユがない!ギョーザをショーユだけで食うオリンピックなんざ知ったこっちゃない (森本平)

をちょっと、というか大分意識してます。もちろん遠く及ばない。「ラーユ」「ギョーザ」「ショーユ」と畳み掛けていくドライブ感。素晴らしい。

誕生日だからケーキを買ったのに飲み物が水かお湯かの二択

おお、もうとんかつも醤油もどこかに行ってしまった。まあ「とんかつと醤油」というのはあるあるネタのひとつのパターンみたいなもので、似たようなシチュエーションはいろいろあると思う。歌にしやすいシチュエーションがあれば、別にとんかつとか醤油にはさほど拘らなくてもいいかもしれないっす。とはいえこれはイマイチですが。

まあそんなこんなで今日はここまで。皆さんもとんかつ弁当を買うときは中にソースが入ってることをちゃんと確認してから買わなきゃ駄目ですよ。おやすみなさい。

押して駄目でも引くなよ風邪は(下の句)

【前回までのあらすじ】

ひょんな事からお互いの心と身体が入れ替わってしまった男子高校生の相澤勇気と女子中学生の相原優希。勇気の母千代子、優希の姉真琴の協力を得て、徐々に軌道にのってきた入れ替わり生活だったが、優希には人に言えない秘密があった。
実は優希は、宇宙からの侵略者「円盤人(ソーサリアン)」から地球を守るために選ばれた「魔法天使・プリティアース」だったのだ。次なる円盤人の襲撃の前に入れ替わり状態を何とかしたいと焦る優希。そんな優希に、二人の協力者である勇気の母千代子が驚愕の事実を語る。「わたしたち親子は、地球偵察のために送り込まれたソーサリアンなの」と・・・。
どうなる勇気、どうする優希!?『ふたりのユウキ』第四話「新たなる侵略者」間もなくスタート!

・・・しませんけど、何か。おばんです。「ソーサリアン」ってゲーム、昔あったよね。

昨日出歩いたせいで風邪が悪化。今日は一日中部屋でゴロゴロしてました。
なので何も書くネタがない。短歌も出来ないし。
いや、「出来ない」んじゃなくて「作る気がしない」というのが正確なのかもしれないけど。

風邪気味の夜の静寂(しじま)にしみじみと雪降る夜は淋しかりけり

みたいに、クオリティを問わなければすぐにでも出来る。テキトー文語。

短歌を詠むのには、思考を31文字に圧縮するソフトが必要で、それはひとりひとりが経験を基にプログラムを組まなければならない。一度ソフトが完成すれば、ある程度まで自動的に短歌っぽいものが詠めるようになるけれど、インプットされる情報に目新しいものがなければ結局ありきたりな短歌しか詠めない。こまめにバージョンアップしないとすぐに使えなくなるし。

逆に、読むときには圧縮してある情報を解凍するためのソフトが必要になる。どちらのソフトも完成度は個人差が大きいけれど、基本的な回路は訓練すれば身につくはず。しかし、訓練が必要な時点で多くの人は敬遠してしまう。ここのところを、もうちょっとどうにかできないものか。

俺らの親の世代(60~70代)やそれより年上の人たちには、マンガを読めない、読み方を分からないという人が結構居るらしい。マンガを読むのにだってそれ用のソフトが必要で、我々はそれを知らないうちに身につけている。幼少期から触れているため、物心ついた頃には脳内に回路が出来上がっているのだ。

短歌を詠むのには人生経験がものを言う部分も大きいので、はじめるのが何歳でも遅すぎるということは無いと思うけど、読者人口を増やすには、もっとちびっ子も短歌に触れられる機会を増やすことが大事なんだろうなあ、と思いつつ。どうすればいいのかは見当もつかないけど。
マンガや散文に比べて、韻文に触れる機会が少なすぎるんだよなあ、絶対。
穂村弘さんが編集した、岩崎書店の『めくってびっくり短歌絵本』のような本がもっと増えれば面白いのに、と思う。まあ、買ってないんですが(済まぬ)。

そんなこんなで、また。おやすみなさい。

【次回予告】

慌てて部屋を出ようとする勇気を引き止める真琴。「あんた、どこへ行くつもりなの?」珍しく真剣な表情で、真琴は言った。「あんたが何者なのか知らないし、別にどうでもいい。でも、今のあんたの身体は優希の、あたしの大事な妹の身体よ。勝手な真似をして傷ひとつでも付けたら・・・、絶対に許さない」その迫力に気圧されつつ、それでも力を振り絞って勇気は叫んだ。「離してくれ、オレが行かなくちゃいけないんだ!」その手を振り払って外へ飛び出す勇気。
その時勇気が見たもの、それは、ソーサリアンと果敢に戦う、魔法少女の格好をした自分自身の姿だった。
次回『ふたりのユウキ』第五話「魔法少年ダーティアース!?」お楽しみに。 君のハートにもユウキよ、届け!

・・・ごめん。寝るわ。

初詣

おばんです。

相変わらず風邪気味の日々。ですが今日はせっかくの休みなので、頑張って初詣に行ってきました。

盛岡市の新庄町にある盛岡天満宮。近くに市内最大の初詣スポットである盛岡八幡宮があるせいか、境内は閑散としておりました。もうちょっとは賑わってるかと思ったのに。まあ、あまり騒々しいと御参り感がないからこれでいいや、と思いつつ参拝。おみくじは中吉でした。【願い事】の項目には「労多くして益少なし」的なことが書いてあったので、今年も期待できませぬ。残念。

天満宮にははじめて来たのですが、境内には石川啄木の歌碑や松尾芭蕉の句碑などがあって文化的な雰囲気。静かに参拝したい人にはおすすめです。

何枚か写真を撮ってきました。

写真1

説明によると渋民、函館に次いで全国三番目に建てられた啄木の歌碑だそうです。「建碑運動からその実現までの約3年間は壮絶な経過をたどった」と書いてありましたが、一体何があったのだろう・・・?

写真2
写真3

阿吽二体の石馬。なんともとぼけた顔をしていらっしゃる。ここでは狛犬でなく馬のようです。

写真4
写真5

石馬の台座にも啄木の歌。

写真6

本殿の近くにある稲荷神社のお稲荷様。こちらも味のあるデザイン。

写真7

で、台座にやはり啄木。「苑古き木の間に立てる石馬の背をわが肩の月の影かな」

写真8

なぜか芭蕉の句碑もあります。「古池や蛙とびこむ水の音」、ちょっと分かりづらいですが、台座が蛙の形。記録によると昭和五年に熊本の人が建てたものらしいですが、何だって熊本の人が盛岡の天満宮に芭蕉の句碑を建てたのかは分からないとのこと。何だそりゃ。

写真9

境内からの眺望。写真だと伝わらないですが、今日はすっきりと晴れていて岩手山がとてもきれいに見えました。

ほかにも岩手ゆかりの俳人の句碑などがぽつぽつと。高橋青湖という方の句碑には「大正6年工藤芳清らと「自然味」を創刊。以降65年間、通巻640号を没年まで主宰し~」とあって圧倒された。640号・・・。

あ、あと今日はデヴィッド・フィンチャー監督の映画『ゴーン・ガール』も見てきました。新年一発目にはまったく相応しくない(笑)、ショッキングなサイコサスペンス。主演のロザムンド・パイクが素晴らしかった。ですが、いろいろ刺激的な内容なので、ちびっこ達はおとなしく『ベイマックス』を見たほうがいいかもね。でもいい映画だったよ。カメラワークとBGMで観客の不安を煽ってくるあたりとか、ヒッチコック直系という感じでよい。おすすめです。

今日はそんな感じでした。明日はどこで何をしよう。短歌も詠まなきゃなあ。

では、おやすみなさい。風邪ひくなよ!

最近の記事の補足とか言い訳とかそんなの

おばんです。

昨日から風邪気味。

なので今日はちょっと手抜きして、最近書いたことに関する簡単な補足と言い訳をちょこちょこと。でもってとっとと寝ますです。

まずは年末の「没短歌フェス」と「アワード」。元々自作の管理が甘くて、どれが発表済みでどれが未発表なのかが分からなくなってきたので、一度きちんと整理しておこうと思ったのがきっかけ。一応読み物の体裁を整えているけれど、実は自分のために作ったまとめだったりします。
ちなみに「ベストツイートアワード 短歌編」で明かさなかった、年間ベスト1の高得点歌はこれ。

恋愛に準優勝は無いことを確かめながらゆく冬の道

2014年2月22日にツイッターで行われた「短詩の風」というイベントに投稿した歌。イベント効果で2014年最高得点(リツイート+お気に入りの合計点)を獲得。
大晦日の「紅白短歌合戦」にもこの歌を出したのですが、実はギリギリまで悩んでいて。
「前夜祭」に出した

罰ゲームみたいに花は降りしきり駅への道が分からなくなる

永遠に続く遠泳 生きているほうがいいって言い切れたなら

似たような形に病んでいくことを愛と信じてひらく朝顔

Beef or Chicken or Die 願いなど叶うと思うほうがおかしい

真ん中にifがあるから辛うじて今日も僕らのLifeは続く


の五首、なかでも「朝顔」と「Life」の二首がお気に入りで。
ただまあ、紅白はツイッターのお祭りだから、ツイッターで一番好評だったものを出すべきだろう、と思って「準優勝」を出しました。「その年に一番ふぁぼられた(お気に入り登録された)ものを出す」というのが、一回目からの方針。まあまあ好評だったようで一安心でした。今年も同じ方針でいくつもりですが、去年より更にツイッターに流す短歌の量が減りそうで・・・。がむばります。

えーと、あと何だっけ。のどが痛い。

こないだの「クラスタってどういう意味よ」、あれが結構いろんな人の目に触れたようで。こんなことになるならもうちょっとちゃんとした記事にするんだったと反省。
細かいデータを基にきちんとした論を、っていうのが苦手なんで、途中でちょっと飽きちゃったのよね、正直な話。
あの記事では「衰退」だの「役目を終えた」だの書いているけど、実際は「うたらばブログパーツ」でも「うたつかい」でも、参加者は右肩上がりで増え続けていて。
たとえば「うたらばブログパーツ短歌」の場合、第1回の投稿数が55首、俺がはじめて投稿した第27回(不採用!)が250首、それが最新の第71回だと638首に増えている。

もちろんこれだけだと(一人何首でも投稿できるから)参加人数もわからないし、ツイッターから投稿している人の割合もわからないけど、総じて増加傾向にあるのは間違いない。

ツイッターで短歌をやっている人の数は年々増えているんだと思う。ただ、それが俺の目に見えにくくなってきているだけで。
それは結局こっちのアンテナの感度が鈍ってるだけなんだろうけど。

世代交代というか、当たり前の新陳代謝みたいなもので。どんどん若い人が出てきて、そっちが中心になっていく。そうでなければならない。

その上で、新しいことが始まるならそれをリアルタイムで傍観していたい、という思いがひとつ。
それと、ツイッターでよく見かけていた三十代の人たち、特に結社などに所属していない人たちはこれからどうなっていくのか。それを見届けたい、という思いがひとつ。
まあ、後者に関しては年齢的に俺が先頭集団に入っちゃってるんですがw 俺はどうにもならんよ。

元々俺は自分を「短歌クラスタ」の一員だと思ったことは一度も無くて。それでも、「屋台でお好み焼きを買う観光客B」の役として、盛り上がりに一役買ったとは言わないまでも、動員人数に記録されてはいた、と思うんだけど。

あと数年して、更に世代交代が進んだ時に、俺は動員人数に記録されるような場所に居られるかというと甚だ心許ないし、じゃあ主催者側になれるのかというともっと無理だろう。
中途半端な場所を右往左往しながら、何の変化もない毎日を送っているんだろうなあ、と思うと、さすがにちょっと嫌気がさすよね。

モニターで見る打ち上げ花火は、たとえ生中継でも、どんなに高解像度でも、音響がリアルでも。昔、祭り会場からはるかに離れた場所でお好み焼きを食いながら眺めた豆粒みたいなそれよりも、多分、心には残らないだろう。

これからの短歌クラスタは、俺にとって、そういう感じになっていくんだろうなあ、と、何故か新年からおセンチなおっさん。数年後の心配を今からしていてどうなるというのか。

熱があるからだよ。寒気がするよ。せっかく明日は休みなのに。

寝る。回復したら初詣に行く予定。盛岡の天満宮に啄木の歌碑がいくつかあるらしいんですが、まだ一度も行ったことがなくて。もし行けたら写真でも撮ってきます。でも地味に交通の不便な場所なんで、たとえ出かけたとしても多分途中で挫折して、桜山神社あたりで「巫女さん萌え~」とか言ってると思うよ・・・。

ルイージ

おばんです。

最近俺がひそかに注目している「うたの日」というサイトがあるのですが、先日、そこで行われている歌会に俺の短歌と良く似た歌が投稿されている、ということがちょっとだけ話題になっていたので、今日はそのことについてちょっとだけ。

投稿されていた短歌はこれ。

もうダメだつくった歌を精液に変えて激しく射精して死ぬ (ヤオ)

うたの日の歌会、12月31日に行われた歌題「歌」に出されたもの。
で、次に載せるのが俺の短歌。

もう嫌だ血液ぜんぶ精液に変えて激しく射精して死ぬ

今年の題詠ブログに出したもの。日付を確認したら11月30日に詠んだものだった。

・・・うん、似ている。

この件に関して、結論から言うと、別に怒ってもないしあまり気にもしていない。ただ、「やるならもう少し上手くやりなよ」とは思う。だいたい歌会の結果「0点」じゃないか!俺の歌を元ネタにするならせめて高得点を取って!俺までスベったみたいになるだろ!激おこ!

とは思っているけれど。

当初の予定では、ここから「本歌取り」の話に繋げていこうかと思っていたんですが、そっちに話を持っていくと話題が広がりすぎて収拾がつかなくなりそうなので、今回は「類似」の話をします。

ちなみにタイトルの「ルイージ」は言うまでもなくマリオの弟。俺はずっと「マリオに類似しているからルイージ」という俗説を信じていたのですが、ウィキを見てみたらどうやら違うらしい。衝撃。

さて。タイトルに込められた伏線を回収したところで(笑)、本題。

俺ごとき好きになっちゃう人なんてセンス悪くて好きになれない (山本まとも)

2012年の7月19日、ツイッターで見かけた歌。この短歌を読んだときの俺の驚きを、たぶん誰も分かるまい。なぜなら、俺もその昔、まだ短歌を始めて間もない頃に、これと良く似た短歌を詠んでいたから。

俺なんかのことを好きになるような人なんかとは付き合えません

・・・うん、似ている。

山本まともさんの短歌の正確な初出がいつになるのか分からないのですが、キャリアからいって俺の歌のほうが出来た時期は古いはず。しかし、俺の歌はどこにも発表していない完全な未発表作なので、勿論、まともさんの盗作云々ということはありません。

年齢も、性格も、生まれ育った環境も違う(たまたま筆名の苗字は同じw)二人が、こんなにも類似した短歌を詠んでいる。そのことが面白くもあり、恐ろしくもあった。

しかし危ういタイミングだったのです。俺はこの歌を結構気に入っていて、たまたま未発表だったものの機会があればどこかに投稿していたかもしれない。
その場合、俺がまともさんの短歌を盗作した、と言われても仕方がないわけです。言い訳できないくらい類似している。

こういうことは、気づいてないだけで他にもたくさんあるんですよ。以前もブログに書きましたが、俺の短歌と他の先行作との類似を指摘されたことは、実は何回もありますし・・・。常習犯だと思われるとちょっと心外で、俺としては自分のオリジナルだと信じて作っているのですが。

もちろん短歌には著作権があります。他人の作品を盗むのは良くない。

しかし不可抗力というのはあるわけです。言い訳ですがw

「日本語で・現代口語で・31文字で」と条件を限定していった時、短歌の長い歴史から言っても、ほとんどの感情は歌いつくされていると言ってもいい。丹念に探していけば、どんな作品にでも類似する歌がひとつ、ふたつは見つかるはず。

だから仕方が無い、という話ではないんです。だからこそ、ギリギリまで表現を吟味して、おそらくは存在しているであろう類似作品との差別化を図らなければならない、という事。少なくとも、類似した表現を用いた先行作の存在を知っている場合は、それを全力で回避していかなければならない、という事です。

・・・まあ、俺はその辺のツメが甘いので散々やらかしているのですが。恥じる。

以前ラジオで伊集院光さんが、「以前の放送で読んだ投稿と同内容のネタを全然別の人が送ってくることがある。これはおそらく盗作という事ではなく、夢うつつで聞いた深夜放送の内容を、自分の思いつきと勘違いして送ってきているのではないか」
というようなことを言っていました。記憶を基にした曖昧な書き起こしなので、多少実際と異なる部分があるかもしれませんが。

昔読んだ短歌、昔見た写真。映画、漫画、アニメ、音楽、お笑い番組etc。記憶の底に蓄積されていったそれらが、ふとした時に浮上してくる。その時、それを「自分のオリジナルなのか、外付けの知識なのか」を判断するのは困難です。

それでも、いやそれだからこそ。決然として困難に挑む。その覚悟が必要なんだと思う。

・・・何度も言いますが、俺はそれが出来ていない。なので、新年の誓いとして。自分への戒め。

ヤオさんは、多分俺の短歌を知っていたんだと思う。それならば、同じ表現を使うのを止めて、あくまでも自分の言葉で歌を詠んでほしかった。そうじゃなければ楽しくないじゃないですか。仮に高得点だったとしても、それはほとんど俺の手柄ですよ。それは詰まらないじゃないですか。
・・・そして低評価だったのも俺の責任みたいじゃないか!激おこ!

先にも書きましたが、俺は実際は怒ってもいないしあまり気にしてもいないのです。ただ、今後も短歌を続けていくのなら、やっぱりオリジナルな表現を目指してほしい。自分の内側から湧いてきた言葉を。それが結果として類似粗悪品になってしまったとしても、それはしょうがないと思うんです。意図的な盗作でない限り。

結局は、本物だけが残っていくんだから。

今回の記事は主に自分自身への戒め。お互い頑張りましょうね。おやすみなさい。

で、「クラスタ」って結局どういう意味よ?

おばんです。

今回は昨夜俺がツイッターでちらっと呟いたことに関して。

これな↓

ツイッターにおける所謂「短歌クラスタ」は、ここ二年ほど緩やかに活力を失ってきていると思う。このまま衰退していくのか、新しい流れが出来るのか。一方、10代、20代の人たちにはいろいろな動きもあるみたいで。単なる世代交代なのか、とも思いつつ。どうなっていくのか興味津々な2015。

この時は「活力を失って衰退」と書いたけど、その後ちょっと考えを改めた。おそらく、俺がよく名前を見聞きする20~30代の歌人達にとって、ツイッター上での関係性というのはあまり必要が無くなったのだろう。「役目を終えた」というのが、本質に近いのではないか。

まったく知らない人や、名前と作品くらいしか知らない人とツイッターで親しくなる→歌会やイベントなどで実際に顔を合わせる→現実の知り合いになるのでツイッターでの交流があまり必要なくなる、という大まかな流れがあり、それが加速したのがこの二年あまり、という感覚。それを俺は「衰退」と感じていたわけだ。

俺が把握できる範囲で、ツイッター短歌関連の出来事を時系列で整理してみる。

・うたらばブログパーツ短歌 第一回テーマ「お祭り」の発表が2010年7月

・『うたつかい』 創刊 2011年9月

・空き地歌会 第一回は2011年11月26日開催

・うたらばの集い 2012年3月25日開催

・空き家歌会 第一回は2012年6月23日開催

・大阪短歌チョップ 2014年7月19日開催

らしい(いずれもホームページの情報を参照しましたが、もし間違いがあるなら訂正しますので連絡お願いします)。

ちなみに、俺が友人に唆されてツイッターを始めたのは2011年の12月のようだ。どうでもいいけど。

見るとわかるように、空き地歌会→うたらばの集い→空き家歌会、と、オンライン上ではなくリアルに顔を合わせて行うイベントが3ヶ月に1回ずつ開かれている。おそらくこの頃が「ツイッター短歌クラスタ」としての活動のピークだったのではないか。

ツイッターの出現は、短歌のようなマイナーなジャンルを愛好する者にとって画期的な出来事だったはずだ。コミュニケーションの幅が広がって、点と点が線で繋がっていく。その感覚に、誰もが熱に浮かされたようになっていた。遅ればせながら通りかかった俺も、その熱気を感じていたので、だから、今のタイムラインは温度が低いと感じるんだろう。ただ、実際は今の状態が平熱だというほうが正しい認識な気がする。

そういえば俺はうたらばの集いにこんな短歌を出した。

夜空からはみ出している星だけを繋いで作る新たな星座

・・・なんか、ちょっと象徴的ではないかw この歌を何人かのフォロワーさんから誉めてもらったことで、「うたらば」への投稿を続けることや「うたつかい」に参加したりする勇気を持つことが出来た。そんなわけで、実際に参加したわけじゃない俺にとってもうたらばの集いは特別なイベントだった。

まあ、別に今すぐツイッターが無くなるわけでもなし、今年も来年も何も変わらずに続いていくんだろうけど、ただ、あの当時の熱気はもう、少なくとも俺の身辺では感じることは無いのだろう。それは良い事でも悪い事でもないし、正しくも間違ってもいないけれども、ツイッター以外にコミュニケーションの方法を持たない俺としては、やっぱり、ちょっと寂しいよな。

てなわけで、また。以下は単なる妄想文なので、読まなくていいよ。おやすみなさい。


ある星にひとりの男が住んでいた。
男の周りには、男に似た生き物は住んでいなかった。男は、自分はこの星で一種一体しかいない生き物なんだろうと思っていたし、それが当然だと思っていたので、寂しいとも悲しいとも思わずに暮らしていた。
ところがある日、男のもとに別のニンゲンからのテレパシーが届いた。自分にテレパシー能力があることすら知らなかった男のもとに。
自分と似たようなニンゲンが他にも存在することを知った男は、はじめて「寂しい」と感じた。テレパシーが届かない日が続くと「悲しい」と思った。

あるニンゲンが、思念波を増幅する装置を作ることに成功した。「ツイッター」と名付けられたその装置は爆発的に普及し、多くのニンゲン達が空間の壁を越えたコミュニケーションに夢中になった。男は狂喜した。自分はもう、ひとりではないのだ。これを使えばいつだって、どこに居るニンゲンとだって話が出来る!

・・・だが、数年経つと状況はまた変化した。テレパシーでの交流に飽き足らなくなったニンゲン達が、「リアル」という、新たなコミュニケーションツールを使い始めたのだ。言語と、身体によるコミュニケーション。それは、テレパシーによるものとは比べようもないほど刺激的だった。ニンゲン達はみな「ツイッター」を捨て、「リアル」を使うようになった。だが、「リアル」はとても高価なもので、男のような生活をする者にはとても手に入る代物ではなかった。
男は、またひとりになった。「寂しさ」と「悲しみ」を知って。

・・・更に数年が過ぎた。「ツイッター」には、「リアル」ユーザーに対する呪詛の言葉が溢れている。「リアル」を手に入れられなかった者達の嫉妬と羨望。無論それは「リアル」のユーザーには届かない。彼らはテレパシー能力を捨てたのだから。

そんな中、男は、今日もツイッターに語りかける。「おはよう、おやすみ、また明日」と。

これは遭難信号だ。ただ、自分自身に対するものではない。
他の「ツイッター」ユーザーへ向けたものだ。

「君だけがひとりなんじゃない。俺だってひとりだ」と。

返信はない。星も光らない。それでも、遠い夜空へ向けて。

一人きり生まれて死んだ人がいて幸せだったと誰も知らない

岡野大嗣歌集『サイレンと犀』の感想など

おばんです。

今日は最近読んだ歌集『サイレンと犀』(新鋭短歌シリーズ16・書肆侃侃房発行)の感想を書いてみようと思います。

ではまず、歌集の公式テーマ曲(?)をお聞きください。

Badly Drawn Boy : Silent sigh



いい曲ですね。

では、はじめます。

あらかじめそのシステムに孕まれた僕の右手が抜く整理券

ドキッとする歌である。本来人間の為にあるはずの「システム」に、逆に自分が組み込まれてしまっている、という感覚。

骨なしのチキンに骨が残っててそれを混入事象と呼ぶ日

鶏には骨が有って当たり前。なのに、取り除ききれなかったそれは異物と見なされて排除される。「混入事象」と言うが、チキンに骨が付いていることが果たして「混入」なのか。利便性を求めるあまり、「正常」と「異常」が逆転していないか・・・?

岡野作品の根底にあるのは、この「自分(人間)よりもシステム(社会、世界)のほうが上位であり、自分はシステムに動かされているに過ぎない」という感覚、そしてそれへの拭い去れない違和感であるように思う。

<お気に入りに追加>しかなくやむを得ずかなしい記事をお気に入りにする

申し込み規約に何か書いてある書いてある書いてあ 同意する


こういう事は多くの人が経験しており、多かれ少なかれ違和感を持っている。持っているのだが、「仕方ない」「しょうがない」でスルーしていくうちに麻痺してしまって、終いには何も感じなくなっていくのだ。「こういうものなんだ」と、疑問すら持たなくなっていく。
そういう、言わば「システムに飼いならされた人々」に対しては、作者は結構辛辣、というか、意地悪である。

ロッチだよ きみがビックリマンシールだって思っていたものぜんぶ

村民が幸福になるイオンへの忠誠心の高い順から

一軒で何でも揃うコンビニをはしごして揃えるマイランチ


一、二首目。揶揄するような調子だが突き放す感じではなく、他の引用作品と同じような独特のユーモアがある。自覚的であるか否かに関わらず、結局自分だって他の人と同じじゃないか、という諦念が作者の裡にあるのではないか。否定的ではあるが、気持ちは分かってしまうから突き放せない、というような。三首目はそんな作者の精一杯の抵抗、というような感じだが、はしごしているのがコンビニというところに若干自嘲的な雰囲気を感じる。

そんな中、ぼくが今作で特に良いと思ったのは次の二首。

トラフィックニュースは告げるこの夜を確かに生きる僕らのことを

消しゴムも筆記用具であることを希望と呼んではおかしいですか


一首目。「東北自動車道、中尊寺パーキングエリア付近で5kmの渋滞です」などとニュースが告げるとき、そこに並んでいるのは「自動車」であり、単位は「何km」である。誰もそれを疑わない、が、本当は違うじゃないか。そこに並んでいるのは「人間」で、単位は「何人」じゃないのか。我々が自動車の列を思い浮かべるとき、作者は更に踏み込んで自動車に乗っている人間の顔を映し出す。その一歩の踏み込みが、この歌を特別なものにしている。
二首目。「筆記用具」とは文字通り書き記すための道具である。しかしその真逆の働きをする消しゴムも、やはり「筆記用具」の一種として扱われるのだ。異物として排除されるのではなく。
どちらの歌も、「システム」に翻弄されて、ともすれば居ない事にされたり異物扱いされたりする人(や物)への共感が歌われていて美しい。

ただひとつ気になるのは、似たような傾向の歌を多く作っているところ。例えば「トラフィックニュース~」の短歌には、歌集のP125、P127にある「渋滞の~」のような類型歌が存在する。その点、今後の課題かと思う。

作者の裡にはおそらく、自分を取り巻く社会や世界に対する相当大きな違和感がある。そういうものに対しては普通、適応して従順になってしまうか、排除しようとして攻撃的になってしまうか、あるいは絶望して諦めてしまうか。そのどれかに傾くものだが、岡野さんはそのどれでもなく、「発見して、観察して、面白がる」ことが出来るらしい。それこそが、岡野大嗣さんの最大の才能ではないか、と思った。

「危ないところマップづくり」で町に出て危ないところを見つけてうれしい

ところで、岡野さんの短歌については以前檀可南子さんがブログに素晴らしい文章を書いていますので、そちらへのリンクも勝手に貼っておきます。こちら→ 岡野大嗣をべた褒めしてみた

可南子さんが指摘している「時間の流れ」も岡野さんの作品の大きな特徴のひとつ、というか、それこそが岡野大嗣さんの最大の才能ではないか、と、舌の根も乾かないうちに思いました。ただ、そちらの傾向の短歌について語りだすとぼくの睡眠時間が無くなってしまうので今回はこれまで。素晴らしい歌集でした。