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無題

おばんです。

一身上の都合でしばらく更新をサボり気味の山本左足です。
どうも春から収入が激減する見込みで、再就職先が見つからなければ夏までに餓死、という感じになってきました。ウケる。

しばらく生活も精神も不安定極まりなくなりそうなので、ブログの更新もまだしばらくはしない、というか出来なそうです。そうは言いつつやるかもしれませんが。多分しない。しないと思う。しないんじゃないかなあ。まあちょいと覚悟はしておけ。

毎年10枚くらい履歴書を書いて、それがすべて紙くずになった実績から考えると、夏までにってのは相当ハードルが高い。が、何とかしないとリアルにこの世から早退するはめになりそうなんで、まあ、何とかしますw

不思議と短歌はぽつぽつ出来る。追い詰められて脳が活性化しているのかしら。今さらって感じではありますが。もっと金になる能力がほしかった・・・。

起承転転転々々てんてんと足跡だけが続く雪原

そんなわけで、また、そのうちに。おやすみなさい。

これが山本左足の最期の言葉だった・・・、なんてことにならないよう頑張ります。では、また。
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うたらば落選作

おばんです。

短歌×写真のフリーペーパー『うたらば』の最新刊【バランス】が発行されましたね。今回は全没。せっかくなので投稿作をここにまとめておきます。どぞ。

シーソーの反対側に座るのは君がよかった不釣合いでも

毎日の不足しがちな喜びを君の笑顔でそっと補う

永遠に男友達なのだろう君にとっての僕の役目は

地球より重い命に耐えかねてゆっくり萎むバランスボール

天秤の反対側に乗せていた君をなくして壊れる心

完璧な調味料など無いように完璧なやさしさなんて無い


うーん。そりゃあ没になるわなあ、って感じっすねw

うたらばはフリーペーパーですが、web上でも読むことができます。ホームページはこちら→うたらば

岩手には(というかたぶん東北にも)うたらばを置いているところがないので、冊子を入手しようと思ったら採用されるしかないのです(採用されると送ってもらえる)。次回の締め切りは2/28、テーマは【花】。正直苦手なテーマですが、なんとか頑張って詠もうと思います。没ったらまたここに載せますね。
では、おやすみなさい。

猫型ロボの歌

おばんです。そろそろ午前7時ですが、あくまでもおばんです。

毎回投稿しているうたらばブログパーツ短歌の今回のお題が「猫」なので、それに関連して、世界を代表する猫型ロボを題材にした短歌をまとめておこうと思います。文庫化もされている例の企画に投稿しようか迷って止めた歌など。

いつの日か君に話そう押入れに猫型ロボがいた頃のこと

幾度も眠れぬ夜があるだろう剛田武よジャイアンであれ

俺だって劇場版のジャイアンに成りたかったよ成れるものなら

出来杉のことを本気で好きになる人は案外いない気がする

裏山で出来杉くんとジャイアンの決闘を見た中二の終わり

スネ夫よりスネ夫のパパと友だちになるべきなのだ我らはもはや

ポケットがお腹に付いているネコがネコのなかではいちばん好きだ

バイバイン瓶ごと海に投げ捨ててあとは夕陽を眺めていたい

いつの日か「ひみつ道具」が秘密では無くなる朝が来るのだろうか


「いつの日か」ではじまり「いつの日か」で終わる。これをワンパターンなどと言ってはいけない。泣くから。

ではまた。おやすみなさい。

ラスト・トレイン

おばんです。

もう間に合はない未来が遠くにあるやうな気がする 最終電車(ラスト・トレイン)が出る (中山明)

中山明さんの第3歌集『ラスト・トレイン』より。最近、落ち込んだ時などによくこの歌を思い出します。
歩き出すとき右足から踏み出すか、左足から踏み出すか。たったそれだけのことでも、多分、取り返しのつかないほどにその後の人生は変わってしまう。ひとつを選び取ることは、それ以外のすべてを捨て去ることに等しい。意識する、しないに関わらず。人生におけるバタフライ効果。
走りだせば 間に合うだろう かざり荷物を ふり捨てて」と中島みゆきは歌ったけれど(『ホームにて』より)、分かっていても走りだせない時だってある。走っても間に合わなかったこともある。諦めて走らなかったことなら、数知れずある。
それが良かったのか悪かったのか、結局誰にも分からない。ただ「もう間に合はない未来」を思うと、時折どうしようもなく胸が苦しくなる。中島みゆきの歌では、結局ふるさと行きの「空色のきっぷ」は手のひらに残り、「心は 今夜も ホームにたたずんでいる」と締めくくられる。間に合った未来、間に合わなかった未来。そのどちらにもきっと、同じだけの満足と同じだけの後悔があるだけなんだけど。
「行くんもとどまるも それぞれの道なんヨ」(吉田拓郎)『唇をかみしめて』より)ってことですかね、結局。

ちなみに中山明さんの歌集『ラスト・トレイン』はオンライン歌集として無料公開されていますので興味のある方は是非。こちら→ラスト・トレイン
第一歌集『猫、1・2・3・4』もウェブ上にテキストが公開されています。→猫、1・2・3・4

では、また。おやすみなさい。

あたらしい明日があなたにくるようにぼくはかうして窓をあけてゐる (中山明)

映画『そこのみにて光輝く』の感想

おばんです。

今日は映画の感想。といっても既にツタヤで一週間レンタルになっていたものなので、半端じゃない今さら感ですが。しかも気づいたらキネマ旬報の年間ベスト1にもなったそうで、いよいよもうこんなところで俺が語るようなことは何も残って無いんですがw まあ、心に響いちゃったので。

舞台は90年代(と明言されてないですが、原作だとそうらしい)の函館。安アパートで一人暮らしの訳あり無職・佐藤達夫(綾野剛)は、パチンコ屋でやたら人懐こい若者・大城拓児(菅田将暉)と出会う。拓児に「飯食わしてやる」と誘われてついて行くと、行き着いたのは海辺に建つぼろぼろのバラック小屋。達夫はそこで拓児の姉・千夏(池脇千鶴)と出会い、やがてお互いに惹かれ合っていくのだが・・・、と、出だしはこのような内容。

まず、拓児と千夏の家庭環境がもう絵に描いたような極貧。脳梗塞で倒れて以来寝たきりの父、その看病に疲れ果てて無気力無感動の置物みたいになっちゃってる母。喧嘩で刑務所に入っていた拓児は現在仮出所中の身で、一家の支えである千夏は週三日の工場勤務だけでは生計をたてることが出来ず、場末のスナックで体を売るようなことまでしている。
その金額が一回(?)8,000円!というのにちょっと驚いたんだけど、よく考えたら相場が分からないんで何とも。いくら何でも安すぎると思うのだが。しかしまあ何と言うか、千夏の境遇は江戸時代の遊女(いやそれよりも宿場町に居た飯盛り女か)のようでもあり物悲しい。しかもその現場を達夫に見られてしまったりするのだから、もう・・・。

一方主役の達夫はというと、かつて仕事中の不手際で同僚を死なせてしまい、その自責の念から自暴自棄になってしまっているやさぐれ男なのだが、若干悲劇の主人公ぶってる感じもなくはない。そんな達夫が、自分より悲惨な境遇の姉弟と知り合い、ふたりの為に何かをしたい、という思いから過去のトラウマを克服していく、というのが達夫の側のストーリーなのだが、正直、千夏と拓児のストーリーのほうがメインになっている感は否めない(とはいえそれは物語が要請する必然でもあると思う。後述)。

いやもう、とにかくメインキャストの3人が素晴らしいのですよ。特に池脇千鶴はもはや神々しくさえある。単に演技力があるとかいうレベルではなく、仕草や表情、果ては身体つきまでも(まあこれは偶然の産物かもしれないがw)千夏というキャラクタと完璧に一体化している。『ジョゼと虎と魚たち』が女優池脇千鶴の完成形かと思っていたが、まだ先があったかと。凄い。
綾野剛の場合は「当たり役」というべきかもしれない。正直演技力は今ひとつという気もしなくもないが(ファンの人済みません・・・)、不器用そうな感じ、所在無げなたたずまい、ぶっきらぼうなセリフ回しなどが、奇しくも達夫という人物を演じるのにこの上なく嵌まっているのだ。
そして菅田将暉。馬鹿でいい加減でやんちゃだけど憎めない拓児を好演している。正直名前ぐらいしか知らなかったのですが、近作でファンになりました。良い。
あと一人、造園会社の社長を演じた高橋和也も挙げておきたい。妻子持ちでありながら千夏と不倫関係を続けるゲスな男を演じているのだが、これがもう本当に名演。ちょっとしたセリフや仕草が妙にリアルで、(ああ、こういう奴いるよなあ)という感じ。出てくるだけで厭な気分になる(褒め言葉)。自分の性器に唾を付けてレイプ同然に千夏を犯すシーンとか、もう最高にゲス。ゲスの極m・・・言わねーよ。何気にストーリーの中でも重要な役割を果たす人物。

性器云々の話が出たのでついでに言っておきますが、全編に渡って性描写が頻出します。特に寝たきりの父親の性処理を娘の千夏が行うシーンとか、直接的なカットは少ないもののなかなかエグいです。そこは注意が必要。家族そろって見るような映画ではないです(言うまでもないことですがw)

さて。以下は物語の直接的な内容からはちょっと離れるかもしれない、感覚的な感想(とか言いつつ結構ネタバレしてますw ご注意ください。映画を見てから読むのを推奨)。

物語の舞台は函館市となっているが、実際は、それよりもっと寂れた、どこか、この世の果てのような海辺の田舎町、という雰囲気がある。真夏なのに紫陽花が咲いていたりする描写も、どこかファンタジーを感じさせる。そしてこの町では時間が止まっている。永遠に続く夏、永遠に続く日常。地獄のような、この世の果て。
この映画の真の主役は、実は、この「町」そのものではないか。
千夏は、町に呪縛されている。寝たきりの父、無気力な母、仮釈放中の弟。彼女には彼らを見捨てることが出来ない。
高橋演じる造園会社社長・中島はこの町の顔役であり、町そのものの象徴のような存在である。当然、千夏は中島からも逃げられない。未来を諦め、夢を捨てて、時間の止まった町の中に己のすべてを埋没させようとしている。

達夫は町の外からやってきた「よそ者」である。彼は町のルールに囚われない。千夏に夢を与え、中島に歯向かい、拓児を山へ(町の外へ)連れていくと約束する。達夫のストーリーがこの映画の本筋にならないのは必然である。彼はこの世界における「招かれざる客人」だからだ。主人公というよりも、トリックスター的な役回りなのだ。

達夫の目は過去だけを見ている。千夏は時が止まったまま現在に埋没している。その二人が出会うことで、はじめてお互いの「未来」に目を向けることになる。

もう一人、達夫や千夏よりももっと無邪気に自分の未来を夢見ている男がいる。拓児である。登場人物の中でただひとり、彼だけは、自分の都合ではなく常に他人のために行動している。家族のため、友人のため、そして中島のためにも。はじめ、彼は中島の部下として、「町」に奉仕する者として登場する。しかし徐々に立場を変え、達夫と中島を引き合わせて以降は、町の象徴である中島の元を離れ、よそ者の達夫と接近していく。彼の行動は町に変化をもたらし、それが、やがて夏祭りの悲劇へと繋がっていく。彼が仮釈放中の身であることは偶然ではない。彼もまた「よそ者」なのだ。

自分と家族の明るい未来を無邪気に夢見る拓児もまた、町のルールの外側にいる(トリックスターという意味では、むしろ彼のほうがその称号に相応しいのかもしれない)。彼が中島をアイスピックで襲うのも、そしてそれが夏祭りの夜であるのも、もちろん偶然ではない。彼のその行動によって、止まっていた時計はまた動き出し、そして、夏が終わる。よそ者の一人である拓児はまた他所へと姿を消す(自首しに行くときの軽やかなステップは印象的である)。残された達夫と千夏に「未来」を託して。海辺にたたずむ二人を朝日が照らすラストシーンは、本当に美しい。タイトルの示す「そこ」とは、「町」のことでもあり底辺の「底」でもあると思うのだが、何よりもあの場面、あの一瞬を指し示す言葉なのだろう、と、そう思った。

義理チョコ撲滅推進評議会会長就任演説(草案)

おばんです。

映画を見てたらすっかり朝になってしまったので今日は短く。

バレンタインデーですね。
チョコをもらえる人にももらえない人にも、渡す人にも渡せない人にも幸あれ。
しかしね。そろそろ「義理チョコ」などという悪しき風習は止めにしないかね。
男性からしてみても、別に本命チョコが一個もらえればそれで充分なんですよ。どうでもいい人からどうでもいい感じでチョコをもらっても、それはもうどうでもいい。ホワイトデーのお返しも面倒くさい。
女性にしても余計な散財でしょう。義理チョコを10個配るくらいなら本命に10倍かけたほうがよろしい。

「そうは言っても、もう用意しちゃったし・・・」という人は俺にくれるといい。チョコ大好き。俺は義理チョコは否定しても人情チョコは否定しない。俺に対して何の義理も無いあなた方が俺にくれる分にはすべて「人情チョコ」としてありがたく頂戴しますけれども。義理と人情を量りにかけて、人情のほうが重たいことがあったっていいじゃない!

冗談はさておき。バレンタインデーが女性から男性への告白の日だというのなら、いたずらに義理チョコなどばら撒かずに本命に集中してほしいなあ、と思うのでした。
何はともあれハッピーなバレンタインでありますように。

坂道を「チヨコレイト!」で駆け上がる君の向かってゆく先に、春

渡す相手がいないというなら俺に渡すといいよ。おやすみなさい。

うたつかい1月号掲載作

おばんです。

ツイッターのアカウントを持っていれば誰でも参加できる短歌なzine『うたつかい』の最新号が我が家にも届いたので、今回はそれに掲載してもらった短歌をこちらにも載せておきます。

雨の休日

サイレンが夜明けの街に響く時まぶたに浮かぶあの夏の空

モニターは今日も見知らぬ人の死を何も出来ない俺に伝える

自殺した男の歌を聞きながら窓を叩いていく雨を見る

呟きは涙のように流れ落ち誰の胸にも届かなかった

ひりひりと雨降る夜に廃屋の隅で秘かに咲く惡の華


実際に休みの日にシュパっと30分くらいで詠んだ連作。出来たときはまあまあ良いんじゃない!と思ったけど、今見るとあまりパッとしませんね。1首目の「あの夏」とか、4首目の「涙のように」とか、陳腐。
ちなみに5首目の「惡の華」はボードレールではなく押見修造の漫画のほうだったりします。ちょうどその日読んでいたので。あれは良い作品。

『うたつかい』の感想は読み終わったらこのブログに書こうと思います。今日はここまで。おやすみなさい。

R-1ぐらんぷり2015を見ながら漠然と思ったこと

おばんです。

『R-1ぐらんぷり2015』面白かったですね。コントあり物真似ありフリップ芸ありで、バラエティに富んでいてとても良かった。正直年々レベルが下がってきているように感じていたのですが、今年は全体的にハイレベルだったと思います。特にマツモトクラブさんはキャラに頼らないしっかりしたコントでとても面白かった。今回決勝に残った3人は、皆しっかりと自分の持ち味を出した上で、それがちゃんと客受けや審査員の評価に繋がっている感じで、そこがとても良かった。とか言いつつ一番爆笑したのはとにかく明るい安村さんだったりしますがw

・・・と、こういう風なことを言うと、「ド素人が分かったような顔をしてお笑いを語るな。恥ずかしい」的なことを書かれたりするわけですが。

しかし世の中のどんなジャンルであれ、専門家というのは極少数で、大半は何も知らないド素人なわけです。もちろんコンテストなどの審査員はその業界の専門家がやるべきですが、どんな業界であれ、真に相手にするべきは「何も知らない一般人」なんではないか、と思うのです。
そして、俺のような単なる1ファンにも「何かを語りたい、語ろう」という気分にさせてくれるジャンルというのは、やっぱりとても健全な気がして、ちょっと羨ましく思ったりもするのです。
短歌の場合は「作り手」と「読み手」がほぼイコールで、その小さな輪っかの内側で「面白い」「詰まらない」と言い合っているだけのように感じることがあります。もちろん専門家の意見はこの上なく大事ですが、それと同じくらい「ド素人」の発言も聞いてみたいのです。

「山本左足の短歌って面白いよね」「え~、あんなんつまんねーよ!」とか、そういう話が、普段熱心に短歌を詠んだり読んだりしない人たちの間からも聞こえてくるようになれば面白いのに、と思うのですが。
・・・まあ、現状は短歌界隈の人からもそういう話がまったく耳に入ってこないのでね。遠い遠い夢ですがね・・・。

短歌に限らず短詩形文学は、お笑いと違って「分からない」と言われることが多い。そこに取っ付き難さを感じる読者は多いでしょうし、逆に「これはお前らには分からない高尚なものなのだ!」と選民意識に浸る作り手もいるのかもしれません。それはちょっと残念だなあ、と思うのです。

お笑いでも、例えば昔よゐこがやっていた頭にタクアンを乗せるコントとか、最近だと「ラッスンゴレライ」とか、ああいう「日常とかけ離れたもの。意味が分からない物事や言葉」だけどそれが「面白い」というのは普通に成立するわけです。「分からない」イコール「詰まらない」ではない。当たり前のことですが、これは今後も繰り返し言っていきたい事です。あとあまり関係ないですが「泣けるからって良い映画とは限らない」というのも、ずっと言っていきたい。何かっていうとすぐ「泣ける?」って聞くの止めろ。

は、さておき。

短歌の世界でも「(俺には)よく分からないけど面白い」という作品はたくさんあるわけですが、それら作品の発表媒体が短歌雑誌や結社誌、同人誌といったものに限定されてしまうと、結局輪っかの内側でしか流通しない。そのことに若干の不満があるのです。
もちろん、これまで多くの先人が短歌の普及に努めてきた、その結果の現在なわけですが。でも「この程度の人数が限界。所詮マイノリティの趣味」とは思いたくなくて。もっと読者人口を増やせるはず、と信じているのです。どうすればいいかは見当もつきませんが・・・。

だいたい、韻文を必要以上に「難解だ」と思っている人が多いことにも違和感があるのです。どうも、散文を読むのと同じ要領で韻文を読もうとしている感じ。両者は、すごく極端に言えば漫才と落語くらいの違いがあるのに、漫才しか知らない人が落語を見ながら「意味が分からない」と言っている感じ、というか。違うか。ある程度慣れ親しんでくれば両方楽しめてお得なのに、と思ってしまうのですね。

まああれこれグダグダ言ってきましたが、実際問題、短詩形文学にとっての最大の敵は「無理解」ではなく「無関心」なわけで。「分からない」どころか「知らない」という段階で止まっている人たちの心臓に三十一文字を突き刺してやる方法を考えねばなりません。って、結局良い短歌を作れという話でしかないような気もしますがw

まあ、そんなこんなで寝ますわ。結論?何それ食えんの? まあ、お互い頑張ろーぜ!ってことで。
おやすみなさい。

うたらばブログパーツ短歌投稿作のまとめ

おばんです。

うたらばブログパーツ短歌、今回のテーマは「結」でした。

結ぶこと ほどかれること 紐のもつ真の役目はどちらだろうか

しあわせな結末でいいぼくが見ることの出来ない映画はぜんぶ

靴紐のようにあなたと結ばれてほどけてしまう夢ばかり見る

くせ者の小結でいい弱かった横綱なんて言われるよりは

告白に「審査の結果ご希望に沿えません」って返信がきた

起承結 風にちぎれてゆく雲のように自然なさよならだった

固結びしてほどけない関係を断ち切るための鋏ください


今回はとにかく新作を、ということで四苦八苦したのですが、結局旧作3、新作4と足掻いた割に大して作れず。「起承結~」の歌が採用になりました。新作が採用されたのは良かった。

短歌に関しては昨年後半からずっと停滞気味です。エブリデイスランプ。こういう時は本を読んだり映画を見たり、短歌からちょっと離れてみたほうがいいのかもしれない。経験上。最近あまり読書も映画鑑賞もしてないのです。昼寝は毎日してますが。インプットが足りないのかもしれません。

「いい短歌を詠みたい」というのと同じくらい「一首でも多く詠みたい」という思いが強い。宗教家の出口王仁三郎は生涯に十万首の短歌を詠んだらしいですが(自己申告ではその数倍とも)、そこまではいかなくとも、何とか一万首くらいは、というのを目標にしてます。あと七千首くらい。
なので一日も早くスランプから脱出したいものです。玉石混淆でいいからサクサク詠めるようになりたい。やってもやってもコツがつかめないのは、結局才能が無いからなのだろうなあ・・・。

まあ、焦らずコツコツやるしかないですね。とりあえず寝ます。おやすみなさい。

使っているマウス

おばんです。

2月6日は「ブ(2)ログ(6)の日」だそうですよ。まあ、これを書いてる現在はすでに7日なのですが。
で、今日のFC2ブログのトラックバックテーマが「使っているマウス」。・・・これでどう面白い話を書けと?とちょっとチャレンジスピリットを刺激されたので、今日はとても面白いマウスの話。

えーと、使っているのは光学式です。    





終わってしまった。

えと、最初にPCを入手したときに使っていたものは、昔ながらの、下にボールが付いたやつでしたね。しばらく使っていると感度が悪くなってきて、引っくり返すと陰毛を噛んでることでおなじみの。しかし陰毛というのは何故あんなにも変幻自在なのでしょうか。財布の小銭入れに入ってたり、炊飯器の蓋の上に登頂していたり。読みかけの本の読みかけのページに栞みたく挟まってたこともありましたね。あいつらは、生きている。

いや、じゃなくてマウスの話でした。「マウス」という名称は形がねずみに似ているからだろう、と漠然と思ってはいたものの確信が無かったので、一応wikipediaで調べてみたら案の定、
左右のボタンを耳に、コードを尾に見立てたものである
と書いてました。しかしそれより気になる情報。

マウスの感度を示す単位は「ミッキー」であり、1ミッキーは1/100インチマウスを動かすことを意味する。このとき画面上でカーソルが何ドット動いたかを、ミッキー/ドット比で指定することで、プログラム上のマウスの感度は実装される。

マウスだけにミッキーということで、いかにもアメリカ人の考えそうなジョーク(命名者はマイクロソフトのプログラマーだった人らしいです)ですが、もともとパソコンにあまり詳しくない俺には何のことやらイマイチ理解できない。マウスが陰毛を噛んでいるとミッキーが激しく落ち込んでカーソルが動かない?のか?頑張れミッキー!

ちなみにアメリカンジョークと聞くと、いつも、かつて友人が晩年の赤塚不二夫の漫画を見たときに言い放った名言「アメリカンジョークより酷ぇ」を思い出すんですよね。まあ、どうでもいい話ですが。

もうちょっと分かりやすい説明はないか、と思ってgoogle先生にお伺いを立てたのですが、検索上位のブログやら何やらはどれもwikiのコピペばかり。皆この説明で充分理解できているのか、それとも何も考えずにただコピペしているのか。うーむ。

マウスを動かすと画面上のカーソルも動くわけですが、その感度はあまり敏感でも鈍感でも困るらしいです。敏感すぎると意図したところと別の場所をクリックしたりしてしまう(らしい)し、鈍感なのは単純に使いづらい。だから快適な感度を探そうという話になるわけですね。で、それを求めるための最小単位が「100分の1インチ」で、その分マウスを動かしたときにカーソルがどのくらい動くかというのを快適さの基準にした、と。で、陽気なアメリケンが「1/100インチ=1ミッキー」と、フライドチキンを頬張りながら決めた、と。そういうようなことで合ってるのかなあ。まあ、そんな感じじゃないですかね。

ちなみに1インチは約2.54cmらしいです。日本で採用されているメートル法は元々フランスで世界共通の単位を目指して制定されたもので、現在では実際にほぼ世界中で使われているらしいですが、アメリカは何故か頑なにヤード・ポンド法を使っているのですね。欧州から(非常に表現は悪いですが)都落ちするように移民した人たちのコンプレックスの現われかしら、とも思ったり。まあ、今となっては単純に「メートル法に切り替えると金がかかる」ってだけかもしれませんが。
日本にも古来からの「尺貫法」があって、ある程度メートル法と共存できているのだから、アメリカもそんな感じでやればいいのに。いろいろ、分かり辛いですよね。

そんなこんなでそろそろ寝ます。面白いマウスの話になったかどうか。面白い陰毛の話にはなってる気がしますが。うーむ。

www(ウェッブ)のかなたぐんぐん朝はきて無量大数の脳が脳呼ぶ (坂井修一)

では、おやすみなさい。

創作に至る病

おばんです。

今日はなにやら匿名で他人への誹謗中傷をした人が居たとかで、一時期ツイッターがざわついてましたね。嫌な話です。

昔から冗談で「短歌好きに善人はいない」などと発言しているわけですが、善悪はともかく、創作をする人間にはマジョリティは少ないだろうと思ってます。みんなマイノリティ。特に短歌は文芸の中でも弱小ジャンルなのでますますその傾向が強い気がする。それもサイレント・マイノリティ。なんとなく、周囲を見渡してのイメージですが。

心のなかにずっと雲がかかっていて、そこから延々と雪が降り続いている。短歌というのはその雪で作った雪像みたいなものじゃないか、と思うことがあります。ある程度現実に満足してしまうと、その雲は薄くなったり消え去ったりしてしまう。そうなるともう短歌は作れない。まあ、どちらがしあわせなのかは良く分かりませんがw

俺は自分の作った雪像にはどんなに下手なものでもそれなりに愛着があって、どれも大事だと思ってます。基本的に、誰にも見せずにこっそり庭に飾っておくだけでも満足できるオメデタイ脳みその持ち主なので、とにかく、自分の心の慰めになればそれで充分、というようなところがある。
けれど普通はちゃんと一般公開して、いろんな人に褒められたり認められたりしたいと思うものでしょう。誰だって天才になりたいはず。俺だってなりたかった。二十代のうちに賞を取って華々しくデビューして、いろんな人から「すごい、すごい」と褒められて、憧れられて。そうなる予定だったのに、どうしてこうなった・・・かはさておき、そういう自分の姿を夢想したことのない人は少ないはず。しかし現実には俺を含め九割の人は凡才に過ぎないわけです。どこかで妥協しなければいけない。

褒められたいし認められたいし愛されたいよねえ。そりゃあもう気が狂うほどに。

・・・で、そういう心理が暗黒面のほうに堕ちてしまうと、自分の言動で他人が怒ったり傷ついたりするのを見て喜ぶ、という風になってしまうのかなあ、とふと思ったのでした。とにかく他人に影響を与えたい、たとえマイナスの事でも、というような。

生きてる限り、努力するか妥協するかの二択でしかないわけで。努力する方向を間違えないようにしたいものです。

・・・何が言いたかったかよく分からなくなってきた。

話は変わらないようでちょっと変わりますが、俺は以前から創作活動というのは「趣味でやるストリップ」みたいなものだろう、と思ってまして。要は性癖を満足させるための露出なわけですが、他人からお金を取ろうと思ったらやっぱり「ダンスが芸術的」だったり「プロポーションが抜群」だったり「とにかくエロい」だったり、そういう際立った特徴が必要で。単に自分が気持ちよければそれでいい、というのではダメなのですよ。で、際立つためには結局日々の研究と努力、その上でやっぱり才能が必要になってくる。
俺なんかは特殊オナニストですから、見てる人が何と思おうが素っ裸でいられればそれで満足、みたいなところがあるわけですが(あくまで比喩ですからね、通報しないでね)、他人を勃起させようと思ったら「綺麗な裸」で「綺麗な踊り」を目指さなきゃいけないのですよ。それが出来ないからといって他の踊り子に泥団子を投げつけるような真似はやっちゃいけません。拍手喝采を浴びる踊り子のステージを舞台袖で見詰めながら、衣装の裾を噛んで「キーッ!」って言おうじゃない。そして枕を涙で濡らそうじゃない。いつかメインステージに立てるように、頑張るしかないじゃない。

まあ、何だ。たとえ100m9秒台で走れなくたって、日々タイムを縮めるべく努力している陸上選手を馬鹿にする人なんて誰もいないのだから。才能が無いなら無いなりにやっていくしかないじゃない。
・・・って、別にストリッパー云々のくだり要らなくね!?この一文だけで良くね?

ま、いいか。

認めたり認められたり認めてる人から認められたりしたい

あしたのためにその1、寝る。永遠に雪の止まない夜の盛岡から愛とか性欲とかいろんなものを込めて。おやすみなさい。

節分の話

おばんです。

2月3日は節分。皆さん豆まきしましたか。俺は子どもの頃数回やった記憶があるくらいで、かれこれ30年くらいしてないですね。

節分というのは元々季節の変わり目である立春、立夏、立秋、立冬の前日のこと。今は2月4日が立春なので3日が節分なのですが、2025年からは閏年の翌年は2月2日が節分になるようです。よく分からん。

節分に行う豆まきの由来は、昔の宮中行事である追儺(鬼やらい。方相氏という役目の人が鬼を追い払う行事)だという話ですが、それとは別に(?)民間レベルでも昔から豆まきが行われていたようです。鞍馬山の鬼に豆をぶつけて退治した、というお話が節分の由来として語られることもありますが、ぶつけるアイテムとして豆が選択されている時点で、すでに豆まきというイベントは存在していて、あとづけで作られた物語なんだろう、と思います。

穀物は大地の繁栄、生命力の象徴で、昔から邪気を祓う効果があると信じられていたようです。特に豆は「魔滅」に通ずる、という語呂合わせで、魔除けの力があると思われていたとか。東北ではまずお目にかからない「柊鰯」も、柊の棘と鰯の臭いに魔除けの力があるということのようです。しかしなんで鰯なんでしょうね。身近だったからでしょうか。

豆まきの時の掛け声といえば「鬼は外、福は内」ですが、鬼(鬼神)を祀っている一部の神社などでは「鬼も内」と言うらしいです。あと苗字に「鬼」が入っているご家庭とか。

ところで「オニ」という言葉の語源に関して、一般的には「隠(オン)」が変化したものと言われてますが、中国文学者でエッセイストの高島俊男はそれに異を唱えて
「おに」の由来は不明とするほかないが、奈良時代には用例なく、平安初めにはもう由来がわからない、という不思議な語である
と書いている(講談社現代新書『漢字雑談』88ページ)。ここのところもうちょっと詳しく書きたかったのですが、疲れてきたのでまた今度。この本はとても面白いので読むと良いです。

鬼の面 年々かわいくなってきて豆がイジメになる日も近い(くどうよしお)

いいパンツ過ぎるおんなは要注意 鬼のパンツはほぼいいパンツ (岡野大嗣)


最後にうたらばブログパーツ短歌「鬼」の回から好きな歌を二首引いておきます。一応短歌のブログなのでw

では、おやすみなさい。

自重しようと思いつつ、野球の話

おばんです。

二月といえばプロ野球のキャンプイン。というわけで、今日は野球の話。去年「ベストツイートアワード」をやった際、ツイログを見ていて気づいたのですが、野球の話をし出すとフォロワーが減る!ので、ブログではなるべく自重しようと思っていたのですが、早くも我慢の限界。

そんなわけで、俺は東北楽天ゴールデンイーグルスのファンです。とはいえ子どもの頃はテレビっ子で、野球シーズンになるとしょっちゅう見たい番組が飛ばされてしまうので野球は大嫌いでした。その頃は特に「プロ野球=巨人」という風だったので、とにかく巨人軍こそテレビ番組を中止に追い込む悪の軍団というイメージ。その時の気分がいまだに尾を引いて、今でも巨人はあまり好きではありません。巨人ファンの人申し訳ない。

野球が好きになったのは、ベタな話ですが松坂大輔が在籍した時の横浜高校対PL学園の試合を見てから。松坂ももちろん好きですが、それ以上に、名門の意地にかけて怪物松坂を倒そうというPLナインの奮闘が強く記憶に残ってます。個人的にはあれが高校野球のベストゲームですね。田中将大と斎藤祐樹の投げあいも良かったけど。

そんなこんなで野球好きへと劇的な転向を果たしたものの、幼少期からのトラウマで巨人嫌いは治らず。しかし東北のド田舎に住んでいると、巨人以外の試合なんて見る機会がほとんど無い。そんな時イーグルスが設立されて、以来熱烈なファンになって現在に至る。

実際問題、フランチャイズ球団を持たなかった東北においては、先にも書いたとおり「プロ野球=巨人」だった時代があまりにも長いので、「野球好き=巨人ファン」の図式は今なお根強く、交流戦などで両チームが対戦するときなどはむしろ巨人を応援する人のほうが多いぐらいだったのですが、一昨年の優勝でちょっと雰囲気が変わってきたかな、という感じ。それだけに、昨年の最下位は残念だった。今年は巻き返しに期待。

森雄大、松井裕樹、安樂智大と、3年連続で高校卒の有力な投手を獲得できたので、この3人が順調に育ってくれれば辛島や塩見らと合わせて今後数年投手王国が・・・、と夢見ているのですが、現実はなかなか厳しいのでどうなるやら。あと、エースの則本には球界を代表する投手になって沢村賞ぐらい取ってほしいところ。

それと何と言っても銀次の首位打者。ツイッターでもたまに愚痴ってますが、47都道府県で唯一岩手県出身者だけがプロ野球の主要な個人タイトルを獲得していない。大谷翔平が投打どちらか一本に絞ればすぐにでもタイトルを取れそうなもんですが、二刀流を続ける限り若干厳しい(とはいえ前人未到の試みなので、いけるところまで頑張ってほしいとも思いますが)。西武の菊池雄星、ヤクルトの畠山和洋も実力を発揮できれば充分タイトルを獲れる選手だと思うので頑張ってほしいです。

いずれにせよ、春季キャンプもまだ始まったばかりですが、松井も安樂も上々の滑り出しのよう。歳も近いし、お互いに刺激しあって良い結果を残せるように頑張ってほしいです。

といったところで、一応このブログの趣旨に合わせて短歌の話もちょっと。
野球好きの歌人といえば正岡子規。なにしろ本名の「のぼる(升)」をもじって「野球(のぼーる)」という雅号を用いたほど。野球の普及に功績があったとして野球殿堂入りまで果たしてます。筋金入り。

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも (正岡子規)

「久方の」は本来「天(あま、あめ)」等にかかる枕詞ですが、それをアメリカの「アメ」とかけているわけですね。

今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな (正岡子規)

シンプルですが、野球好きの心情をよく表したいい歌。満塁から点の入る球団が羨ましい。我が楽天イーグルスときたら・・・。

野球は国民的スポーツとか言われるだけあって、以前触れたボクシングと比べると格段に多くの短歌が詠まれているようです。「野球 短歌」でググるとたくさん出てくる。今回はここまでにしておきますが、そのうち「野球の短歌」というテーマでブログを書くかも。

折角だから俺の短歌もいくつか載せておきませう。こっちはいつも通り青字で(太字に統一しようかなあ・・・)

一球で肩がぶっ壊れるけれど160km投げられますよ

あー、いや、これはギャグのやつだ。

白球をFで始まる禁止語に置き換えたくなるような敗戦

・・・これも。割とまじめなやつも二首ほど載せときます。

一筋の涙のように白球が人工芝に落ちるのを見た

夕空に統一球が弧を描く 無理だろ全部忘れるなんて


ふむ。個人的にはファッキューの歌が一番好きだったりしますねw

そんなこんなで寝ます。キャンプ情報を見るのが最近一番の楽しみ。ウザがられるので野球話はほどほどにします。おやすみなさい。

サヨナラといふ勝ち方と負け方がありて真夏の雲流れゆく (小笠原和幸)

追記:斎藤茂吉の書いた「子規と野球」という随筆を青空文庫で見つけたのでリンクを貼っておきます。面白いです。→ 子規と野球

題詠ブログに参加するので

おばんです。

毎年参加している「題詠ブログ」という短歌のイベントが今年も始まるらしいです。11月末までに短歌を100首詠む企画。ブログのトラックバックを利用する仕組みなので、投稿をはじめるとかなり頻繁に更新をすることになります。普段このブログに雑談を読みにくる人にはちょっとウザイ状況になってしまいそうですがご勘弁願いたいです。元々題詠をやるために始めたブログだったので。
とはいえ大分時間があるので、今すぐはじめるわけでもなく。しばらくは今まで通り雑談やら短歌やらダラダラと書いていこうと思います。題詠をやる時は短期間でまとめて詠むようにする予定。

そういえば、この間ようやく『歌壇』誌を手に入れたので、近々歌壇賞の感想など書くつもりです。俺は相変わらず箸にも棒にも引っかからないなあ・・・。次も出すよ。

そんなこんなで、今日はもう寝ます。おやすみなさい。

参加します(山本左足)

一昨年はブログの投稿制限に引っかかって完走できず、去年は完走報告をし忘れて完走扱いにならず・・・。今年こそちゃんと完走したいです。よろしくお願いします。
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