うたらばブログパーツ短歌投稿作のまとめ

おばんです。

相変わらずドス黒い想念ばかり浮かんで消える毎日。

定年退職してから趣味で肉牛の飼育を始めた父が、セリで盛岡に来たついでに、見るからに高級そうな霜降り肉を置いていったので、今晩はそれを焼いて食べました。「旨い!旨い!」と、食べてる間はテンションが高かったのですが、食べ終わってしばらくするとまた気分が落ち込んできて、(俺のような人間があんな高級な肉を食べてはいけないんじゃないか。味も分からないのに。飼育した人にも申し訳ないし、何より命を冒涜しているのではないか。いや、それを言うなら高級か否かに限らず、俺が他の動物を殺して食うのは間違ってるんじゃないか。俺が死ねばいいのに)という気分になってきて、最終的に食べた牛肉をほとんどトイレで吐いてしまった。心が弱すぎるんだな、きっと…。

でもすき焼きも作っちゃったんで明日も高級肉を食うけど。

そんなわけで今日もブログを書く気分じゃないので、いつもの投稿作品をまとめたやつです。今回のテーマは「中」です。

手も触れず僕の心にしあわせを君は生み出す手品のように

真ん中で割れるアイスを割らないで一人で食べて今日も楽しい

国中のセクシー女優をはべらせて例のプールで泳いでみたい

怖くない幽霊だなと思ったら胸に「研修中」のプレート

今もまだ一人で汽車を待っている作中主体の孤独を思え

風のなか微かに揺れるブランコがあなたのようでじっと見ていた

家中の引き出しという引き出しを開けて未来を探したあの日


今回は7首。「今もまだ~」が採用になりました。完全新作が採用されたのは久々だったので嬉しい。作中主体という言葉、覚えたての頃は(なんかカッコイイかも)と思って使ってましたが、今はほとんど使いません。たまに短歌の中で使うぐらい。

僕じゃなく作中主体なんだろう君を本当に好きだったのは

とか。ま、どうでもいいか。

ついに酒を買う金も無くなって途方にくれております。眠れない。でも寝ないと明日が来てしまう(もう来ているけど)。しょうがないから眠くなるまで短歌でも作ってることにします。おやすみなさい。
スポンサーサイト

アイアイ

解答欄ずっとおんなじ文字並び不安だアイアイオエエエエエエ くどうよしお

うたらばブログパーツ短歌「解」より

おばんです。

相変わらずおちんこ見がち、もとい落ち込みがちな毎日を過ごしてますが、今日はちょっと嬉しいニュースがありました。

うちの甥がスポーツ推薦で無事地元の高校に合格したそうです。良かった。

兄のところには子供が三人居て、長女は舞踊の大会で優勝して地元のテレビで特集されたりしていたし、次女は卓球でインターハイに出場したりと優秀で、しかもどっちも現役で国立大学に合格するほど頭も良かったものですが、歳の離れた末っ子長男の甥は甘やかされて育ったせいかどうもパッとしない…、いやスポーツは推薦されるぐらい優秀だし真面目にやってるんですが、勉強のほうがまったくアレで。病気療養と称して年末年始一ヶ月くらい実家に厄介になっていたのですが、その間勉強しているところをついに一度も見なかったぐらい、どうやら本格的に勉強嫌いの様子。要らぬお世話と知りつつも「勉強見てやろうか」と度々声をかけたのですが煙たがられるばかり。いくらスポーツ推薦とはいえ大丈夫かしら、と心配していたのですが何とか引っかかったようで、本当に良かった。

叔父というのは、親戚とはいえ子供の教育には別に関係が無いので、ただただ可愛がってればいいだけの非常に楽でおいしいポジションだと思う。優秀だろうがぼんくらだろうが、俺にとっては別にどうでもよくて、どの子も同じぐらい可愛いんですが、姉が優秀だと劣等感を抱いたりしないものか、と、兄弟のなかで一番ぼんくらだった俺としてはその点がちょっと不安に感じたりもします。まあ、今のところ姉二人とも仲良くやってる感じなんで、余計な心配かもしれませんが。男兄弟と姉⇔弟、という関係とでは感じ方が違うのかも。あとは弟(妹)が居ないというのも大きいかもしれない。俺の場合、二歳下の弟と比較されて「お前は劣っている」と家族に言われ続けたのがキツかった。なので俺としては、今日このブログに書いたような「姉二人は優秀だったのに」的なことだけは絶対に言わないように気をつけて接していたつもり。

「絶対叱らない(危険な事をした時以外)、絶対貶さない、とにかく褒める」というのが、若い頃に決めた小さい子どもに接するときの自分ルールで、それは一応守れていた筈だと(自分では)思ってます。これが自分の子どもなら当然叱ったり、場合によっては叩いたりする必要もあると思いますが、叔父にはそんな責任は無いのでただただ可愛がる。子ども好きにとっては一番いいポジションですね、きっと。

さて今日の短歌。この短歌の一番のポイントは四句目にあると思うのです。結句の「オエエエエエエ」が嘔吐の擬音にもなっていて、そこに工夫があるわけですが、でも、例えば四句目を「とても不安だ」とかに置き換えたら、この歌の良さは半減してしまう。結句の工夫が逆にあざとく感じられてしまうのです。上の句はほぼ定型(一句目は六音ですが、語尾の「ん」は発音的に意識されないことが多い。「新幹線」なんかも、五音に感じられませんか)に収まっているのに対し、四句目は八音になり、かつ、意味の上でも「不安だ/アイアイ」と句の途中に切れ目が生じているのですが、その定型が崩れるさまがまさに「不安だ」という感情とリンクしていて良いと思います。改悪例で出した「とても不安だ」だと、定型に沿っているにも関わらず(というか、それゆえに)不安さが出ない。そして「アイアイ」が良いんですよ。これが前フリになっているおかげで、大オチの「オエエエエエエ」が最大限に生きる。きっと誰でも経験している、いわゆる「あるあるネタ」みたいな短歌ですが、単に「そういう事あるよねー」で終わらせないエンターテイメント精神が素晴らしいです。

ちびっこだった甥も春から高校生ということで、俺もいつまでもおちんこ出てばかり、もとい落ち込んでばかりも居られないと思ってます。もうちょっとしっかりしなければ。いつか甥や姪に見られるかもしれない記事を書くときに限っておちんこおちんこ言っている場合じゃないんですよ、まったく。俺も下ネタに頼らないエンターテイメント性を身につけたい。

というわけで今日はここまで。おちんこ出るときは美味しいものを食べてたくさん寝るのが一番、ということで、とりあえず飯を食います。では、おやすみなさい。

おいとまをいただきます

おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は 斎藤史

歌集『ひたくれなゐ』より

おばんです。

ここ一週間ばかり精神的な落ち込みが激しくて、短歌も詠めない毎日です。昔ならこういう時は「もう嫌だ死にたい」みたいな短歌がたくさん出来たんですが。今はもう、真っ白な頭と無駄に大きな身体をただゆらゆらさせているだけの生き物です。

こういう気分の時はとにかく「死にたい」という言葉が口をついてしまいます。アレです、寒いときに「うう、寒い」と言っちゃうのと一緒です。言ったからってどうなるものでもないけど、つい言ってしまう。

宮本輝の小説ほどでは無いにせよ、一日のうちに数十回は死にたくなったりしますね。まあそうそう死にませんが。

宮本輝は若い頃結構好きで読んでましたが、いつからか、若い女性が海外でグッドルッキング・ガイと知り合って恋に落ちる、みたいな(俺にとって)どうでもいい話を書くようになってしまったので、それ以降あまり読んでません。『流転の海』シリーズは面白いという噂を聞いて何冊かまとめ買いしたんですが、結局そのまま本棚の肥やしになってますね。いつか読もう。個人的には初期の作品が好きです。『蛍川』とか『泥の河』とか『幻の光』とか(是枝裕和監督の映画版も良かった)。『青が散る』や『春の夢』、『優駿』も好きな作品。『五千回の生死』は正直良く覚えてませんが(笑)

にしても何故これほど鬱屈した気分になるのか、ちょいと自己分析してみたのですが、入院していたせいで収入が途絶えているのが一番大きい要因だと思います。みんなビンボが悪いんやな。他には特に嫌なことや悪いことがあったわけではないので、まあそのうちに元通りになるでしょう。それまではのんびり落ち込んでいることにします。

掲出歌については、俺がウダウダ読み解かなくても内容に関してはさほど難解ではないと思います。暗いテーマの短歌ですが、作者独特のユーモラスな語り口と平仮名を多用したやわらかな雰囲気でスッと心に沁みこんできます。印象的なのが結句の字余り。ピタッと定型に収まらないところが、何と言うか歌のテーマとリンクしているような気になりませんか。一行の詩のように人生を完結させられればいい。でも長く生きていれば、必ずそう綺麗には収まらない、はみ出してしまう部分が出てきてしまう。そういうことを表している…わけではないかもしれませんが、何かそういう感じを受けます。

『ひたくれなゐ』は昭和51年刊行で、作者が(多分)67歳のときの歌集。夫や母親の看病をせねばならず、大変な苦労をしていた時期のようです。この短歌に込められた感慨は夫や母に向けられたものかもしれませんが、同時に、もはや若くない自分自身の行く末にも思いを馳せたものだったのかもしれません。

臨終のときの言葉というのも色々ありますが、「おいとまをいただきます」というのはなかなかカッコいい気がする。覚えておこう…って、一人暮らしだと言っても誰にも伝わらない可能性がありますが(何となく、最期は孤独死しそうだと思っている)。あ、そういえば山田風太郎の『人間臨終図巻』が部屋に見当たらないことに最近気づいたんですが、誰が盗った?今名乗り出たら先生怒らないから。

さて、そろそろ寝ます。明日は今日より気分が落ち着いていればいいんですが。おやすみなさい。

やな気分でも無理矢理行くのさ
気分なんかほっといたって良くなるさ (アナログフィッシュ『行くのさ』より)

バレンタインはロッテの元監督

おばんです。

昨日はバレンタインデイでしたね。皆さま無事チョコレートは貰え(渡せ)ましたか。

毎年この日になると、俺の中の思春期の亡霊が騒ぎやがるので困ります。

さて。今日はバイトの子が「バレンタインって差別だと思うんすよ!」と吼えていたので、(そうかー、チョコ貰えなかったのかー)と思いつつ、そのことについてちょっとだけ考えてみようと思います。

バレンタインデーが差別であるかないか、という点については、そんなもん、差別に決まってるじゃないか、と思います。チョコレートを貰える人と貰えない人がいる、それが差別でなくて何なのか。

しかし、世の中そんなもんだろう、とも思うのです。競走すればトップとビリが出る、勉強すれば天才と馬鹿に分かれる、面白いやつもいればつまらないやつもいる、オシャレな人もいるしダサい人もいる、それと同じようなもんでしょう。中にはビリでつまらなくてダサいやつも居るわけです。…俺だ(学力は普通)。

本人ではどうにもならない点で差別が生じるのは良くない。生まれがどうの、性別が何だ、肌の色がどうした、とか。そういうのは良くない。家が貧乏だから進学できないとか、障害があるから仕事が無いとか、そういうのも、出来る限り何とかして欲しい。

だけど、能力によって差が生じてしまうのは、これはもうしょうがない。徒競走で全員並んでゴールさせたりとか、テストの結果を非公開にしたりとか、そんなのは馬鹿馬鹿しいと思う。そういう風にして「出来ない奴」のほうの水準に合わせるのが正しいというなら、世の中のイケメン全員に逆整形手術を受けさせて俺と同じ程度の顔面にしろよ。じゃないと不公平だろ。・・・というのはもちろん冗談ですが。

努力ではどうにもならない世界に俺たちは生きている。外見だけではありません。運動能力だって勉強だってそうです。どんなに頑張ったって100m10秒で走るのは無理だし、東大に入るのも無理だ。だからって終わりでも何でもなく、スキマ産業的に、自分の居場所をどこかに見つけて生きていくことができれば、それでいいじゃないか、と思います。

だから、バレンタインデイがいかに差別的なイベントであろうと、それはもうしょうがない事と諦めるしかないんじゃないかと。この世に数限りなくある差別のなかのひとつに過ぎません。華麗にスルーして、自分が輝ける瞬間をいつまでも待ち続けるのみ。いつかチョコをくれる人が現れるかもしれないし、現れなくても…、ね、まあ、しょうがないよね。

美醜の感覚は個人差が大きいので、美男美女だから得だとは一概に言い切れないところもありますが、それでも、100人中90人が美しいと思う顔に生まれた人と、90人が不細工だと思う顔に生まれた人とでは、冗談でなく住む世界が違うだろうと思います。美男子の見る世界がどんなもんか、単純に興味はありますが、それを見る術はない。独りワイルドサイドを往くのみ。

大丈夫、モテなくて死んだ人は居ない(自殺を除く)

それはそうと、以前ヤフー知恵袋か何かで「バレンタインデイを祝日にすべき」というような意見を見て、えらく感心した記憶があります。もちろん回答者の方も冗談半分で言っているのだとは思うのですが。バレンタインを祝日にすれば、チョコを貰う(渡す)相手の居る人は勝手にデートでも何でもすれば良いし、そうでない人は家に引きこもっていてもいい。祝日だと思えば穏やかな気持ちで過ごせるだろうし、何より、学校や職場に向かう際に否応無く抱いてしまう淡い希望と、それが案の定無に帰した時の砂を噛むような気持ち、あれを味わわなくて済むというのが大きい。自分がモテないことを自覚して、不細工沼で泥水をすすったり苔を食べたりして大人しく過ごしている心優しきモンスターたちが、年に一回、自分の境遇の惨めさを改めて思い知らされて、沼の水がちょっとしょっぱくなる日。バレンタインはそういうイベントと化してしまっている面がありますが、休日になればそれもだいぶ改善されるはず。バレンタインデイは祝日にしましょう。

ところで女子にとってはバレンタインってどういうイベントなのだろう。まあ男子同様「人による」と言うしかないんだろうけど、そんなに楽しいばかりじゃないですよね、きっと。渡したい相手に既に彼女が居たりとか。切ない。そんな時は俺にくれるといいですよ。俺は義理チョコ撲滅論者ですが、義理の欠片も無い人から人情でチョコを貰うぶんには随時受け付けております。バレンタインデイに限らず1年24時間受付中です。よろしく。

差別するとかされるとか、そういう話は非常にデリケートなんで出来れば避けたい話題のひとつなんですが、思いつきでちょっと書いてみました。そんなに複雑なことは考えてなくて、単に、頭がいい人はどんどん出世して世の中を豊かにしていけばいいし、運動が得意な人は金メダルを取れればいいなあと思うし、美男美女はモテればいいじゃない、と思う、という、単にそれだけの話です、はい。

さすがにもういい歳なので、バレンタインだからって一々反応したくないんですよ、本当は。いい加減思春期の亡霊を成仏させたくて、お経代わりにこの記事を書いてみました。首尾よく浄化が済めば、来年以降はグダグダ言わなくなっているはず。乞うご期待。

では、おやすみなさい。

初めて買った歌集

おばんです。

ちょっと前にツイッターで「初めて買った歌集は何か」という話題が出た際、いくつか候補を思いついたものの、どれが最初に買った歌集か結局思い出せなかったのが気になっていたので、昔書いていた日記を引っ張り出してきて確認してみました。

それによると、2001年の5月12日に友人宅で枡野浩一『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房)を読んだのが短歌に触れた最初で、その日、友人にそそのかされて何首か短歌を詠んだのが始めたきっかけのようです。その時詠んだ短歌がどんなのだったかは覚えてません。「一句出来たよ」と言って友人に「一句じゃなくて一首だろうが!」と叱られたことは覚えてます。ちなみにその時俺をそそのかした友人が、後に「ユンボと水平線」で歌葉新人賞の候補になった瀧音という奴で、そいつは当時すでに600首くらい短歌を詠んでいたらしいことが日記に残ってました。そういえば、奴が俺に「短歌は本名で詠んだほうがいい」という考えを植え付けた張本人でもあります(苦笑) それと、「短歌結社ネガティヴ」が誕生したのもこの日のようです。といっても、酒が入った勢いで勝手に適当な事を言い合っていただけで、活動の予定なんて何一つ無かったのですが。

ちなみにその翌日には青森市のクォーターというライヴハウスでくるりのライヴを見たらしい。羨ましい。もう一回見たい。帰りに瀧音カーのガソリンが無くなり、十和田市の街中で、既に閉店後のガソリンスタンドで店員に頼み込んで2000円分ガソリンを入れてもらった、という話も書いてありました。(ああ、そんな事もあったなあ)と何となく思い出せるのが凄い。日記は残しておくべきだなー、と思いました。

ちなみに『かんたん短歌の作り方』は現在ちくま文庫版が出ているようです。そっちもそのうち買わなきゃ。とてもいい本。

その後はしばらく短歌の話が出てこない。フェリーニの『8 1/2』が良かったとか北野武の『ブラザー』のラストがイマイチ気に入らないとか、盛岡フォーラムに『A.I』を見に行ったとか『17歳のカルテ』が名作だとか、映画の話ばかり延々と書いている。他は友人と麻雀したとか酒飲んだとかそんなのばかり。

8月19日に『千と千尋の神隠し』を見たあと、友人たちと5人で恐山観光に行っているらしい。おぼろげな記憶によると、蝦名泰洋『イーハトーブ喪失』(沖積舎)を買ったのは青森の古本屋だったような気がするので、この時期に買っているのかもしれないんだけど記録が無い。無念。

サーカスはどうしてここへ来たのだろうみんな大人になった日暮れに 蝦名泰洋

歌集『イーハトーブ喪失』より。この歌集は電子書籍版が出ていたように記憶していたのですが、Googleで検索しても見つけられませんでした。勘違いだったろうか。

9月にはアメリカで同時多発テロ事件が起きています。が、俺は相変わらずで、公務員試験に落ちたりとかスーパーマーケットの採用面接に落ちたりとかしていますね。今は無き古本屋で藤子不二雄Aの『まんが道』中公愛蔵版をまとめ買いしたとかいう記述にまじって、『短歌雑誌ネガティヴ』零號が出たことがサラッと書いてありました。

その後、何か面倒くさくなったらしく、しばらく日記が途切れ途切れになっています。翌年の1月10日の記述に「『ネガティヴ』-1號発行。今は短歌の話をしている時が一番楽しい」とあったので、その頃には短歌にハマっていたようです。あと友人に借金したことが書いてある。返したかどうかは記憶に無い…。

2月、小林恭二『短歌パラダイス』(岩波新書)を読んで「短歌の読み方(そして詠み方)の幅が広がる名著」と感想を書いている。一流の歌人が一堂に会して歌合せをしたときの記録。短歌だけでなく、その様々な解釈も合わせて読める、とても楽しい本。長く絶版になっていたらしいですが、今は多分復刊されて入手しやすいはずです。

更に同時期、歌集を二冊購入している。林あまり『ベッドサイド』(新潮文庫)俵万智『かぜのてのひら』(河出文庫)。その後、4月に同じく俵万智の『サラダ記念日』(河出文庫)『短歌をよむ』(岩波新書)を読んだことが書いてあって、その後は『ネガティヴ』の感想文を書くのがダルい、とかそんなことばかり。

誰よりもきれいな死体になるだろう
それが理由で愛した少女        林あまり

ひかれあうことと結ばれあうことは違う二人に降る天気あめ 俵万智


それぞれ歌集『ベッドサイド』、『かぜのてのひら』より。

とりあえず、個人の歌集として最初に買ったのは、記録を見る限り『ベッドサイド』と『かぜのてのひら』のようだ、という結論に達しました。当時、読書日記みたいなものも別に書いていて、読んだ本の感想などはそっちに書いていたはずですが、それが残っていないので詳細は不明のままです。枡野浩一『ハッピーロンリーウォーリーソング』(角川文庫)のほうが早い気もするんですが、いつ買ったか分からないままでした。無念。穂村弘『シンジケート』(沖積舎)は更に数年後、確か花巻市の古本屋で見つけたはず。『ラインマーカーズ』(小学館)が2003年5月発行なので、たぶんそっちを先に読んでいると思います。最初期の頃に読んで影響を受けた歌集というとその辺ですね。当時としてはかなりベタなラインナップではなかろうか。篠弘編著『現代の短歌 100人の名歌集』(三省堂)はいつ出たやつだっけ、と思って調べたら2003年3月1日発行でした。この本もかなり熱心に読んだ記憶があります。

「レモネードレイン」と呼べば酸性雨すらも静かに叙情していく 枡野浩一

子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向って手をあげなさい」 穂村弘


歌集『ハッピーロンリーウォーリーソング』、『シンジケート』より。

昔の日記は手書きなので読むのに非常に疲れる。字が下手すぎて、古文書を解読しているような気分になります。こんな機会でもなければ滅多に読まないのですが、たまに読むと面白いので、皆さんも書いておくといいですよ。そういえば、

優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる 俵万智 『チョコレート革命』(河出文庫)より

という短歌について、<この短歌を不倫の歌と読むことは自由だが、「この時期作者は不倫していたらしいから、どうせこの歌もそういう内容の歌なんだろう」と読むことはおかしいんじゃないか。作品から作者の人生を想像するのはいいが、作者ありきで作品を読み解くのは間違っていると思う>と2003年の日記に書いてあって、何と言うか、俺は10年以上前から言う事がまったく変わってないなあ、と思ったりもしました。もうちょっと成長したいものです。あと、作品論とは別に作者論も当然あるべきなので、作者の経歴と照らし合わせて作品を読み解くことが絶対にいけない、などとはもちろん俺も思ってません。念のため。

では、そろそろ寝ます。おやすみなさい。

酒ぎらい

二日酔いの無念極まる僕のためもつと電車よ まじめに走れ 福島泰樹

歌集『バリケード・一九六六年二月』より

おばんです。

勤め先の有線で流れていたゲスの極み乙女。の『両成敗でいいじゃない』を、店に来ていたちびっこが「どーせーあいでいいじゃなーい」と歌っていて(ん、いやそれは良くないんじゃないか?…いや良いのか?あれ?)とちょっと混乱しましたが、最終的には「人それぞれ」という結論に落ち着きました。そんな二月。

今日はとにかく二日酔いが酷くて辛かった。二日酔いにならない酒を誰か発明してくれませんか。

そもそも、家族からも友人・知人からも誤解されていますが、俺は別に酒が好きなわけではないのです。不味い不味いと思いながら、酔いたくて飲んでいる。『ドラえもん』に「ホンワカキャップ」という、ソフトドリンクの飲み口に取り付けて飲むと酔っ払えるひみつ道具が出てきますが、あれは非常に素晴らしい。ぜひ商品化してほしいものです。

味が好きなわけではないので、楽しんで飲む、という感じにならないのですね。手っ取り早く酔っ払いたくて無茶な飲み方になる。物より思い出、味より度数。どんどん体が悪くなる…。

とはいえブランド物のワインや日本酒は確かに旨いと思います。ああいうのを飲んでればそうそう無茶な飲み方はしなくなるのかもしれない。不味い安物のワインや焼酎ばかり飲んでるのが悪酔いする原因でしょうね。みんなビンボが悪いんや。

若い頃はいくら飲んでも記憶を無くしたりはしなかったのですが、30歳を過ぎたあたりから結構あやしくなってきました。身に覚えの無いつぶやきがツイッターに残っていたり。朝起きたらなぜか部屋中にのど飴が散乱していて、携帯電話が酒浸しになってぶっ壊れていたこともありました。新しく買ったスマホは壊すわけにいかないので、慎重に飲まないと。

掲出歌は昔から好きな歌なんですが、今回引用してみてはじめて結句の一字空けに気づきました。ちなみに俺の手元には『バリケード』は無いので、今回は国文社の『現代歌人文庫 福島泰樹歌集』からの引用です。

この一字空けは必要かなあ、としばらく考えてみたのですが、眺めているうちに、この空白に二日酔いの気だるさや虚無感があらわれているような気がしてきました。電車の揺れや震動が二日酔いの身体を容赦なく責める、その辛さがしみじみと感じられますね。普通なら「しずかに走れ」とか言いたくなるところを「まじめに走れ」と言っているところが面白い。

といったところで今日はお開き。酒飲んで寝ます。

仕方なく呑んでいるのだ牛乳を飲んで酔えれば牛乳を飲む ロンドン太郎

『短歌雑誌ネガティヴ』から。何號に載っていた短歌かは忘れてしまった。調べるのダルいんで勘弁して。では、おやすみなさい。

続・筆名について

おばんです。

今回は自分自身の筆名のことについてちょこっと書いてみようと思います。

の前に、まずは前回(筆名について)の反省から。

前回

筆名に関してはまず第一に「使うべきでない。短歌は本名で詠むべきである」という考え方がかなり根強くあります。

と書きましたが、「かなり根強く」は言い過ぎですね。俺自身何度か「短歌は本名で詠んだほうがよい」「あまり奇抜な筆名を使うのは感心しない」などと言われたことがあるのでそのように書いてしまったのですが、それだけだとさすがにサンプル数が少なすぎる。今も昔も筆名で活動している歌人は大勢居ますし。ろくに調べもせずに断定的な書き方をしてしまったのは良くなかった。以後気をつけます。

第一、の部分がいい加減だった以上、それ以降の文章の説得力も激減してしまうのですが、それはもう、申し訳ない、としか。全体的にちょっと主観的すぎるかなあ、とは思うのですが、嘘は書いてないつもり(少なくとも意図的な嘘は書いてません)なので、後は読んだ人それぞれの判断に任せようと思います。

さて、今日は俺の筆名について。

といっても由来に関しては別段面白い話ではないのです。友人宅に遊びに行った際、部屋にあったノートの何も書かれていないページの隅っこのところに 山本 左足 とメモってあるのを見つけて、「何これ?」と聞いたら「さあ、忘れた」とのこと。なんか人名みたいで面白いな、と思い、「これを俺の筆名にする」と勝手に宣言して、以来ずっとそう名乗ってます。ただそれだけの話。

俺はずっと短歌が下手でした。特に本名で詠んでいた頃は。本名、仮に<田中一郎>としますが、田中一郎はとにかく自己嫌悪と自己否定の権化みたいな奴で、過去に自殺未遂も経験しているなかなかの駄目人間です。そんな人間が短歌を詠もうと思っても「死にたい」とか「殺したい」とか、そんな言葉しか出てこなかった。ドリーミィでポエジーな短歌を詠もうにも、本名でそれをやるのには強い抵抗がありました。居もしない恋人へのありもしない恋心を歌ったりとか、今なら「事実より真実!」などと言って堂々とそういう短歌も詠みますが、当時は絶対に無理。第一友人や知人に読まれたら一発で「お前の短歌って嘘ばっかりだな」とバレてしまうわけですし。そしてバカにされちゃうわけですし。

<山本左足>と名乗るようになってからもしばらくは変わらず、中身は<田中一郎>のままで短歌を詠んでいたので、下手、というか嫌いでした。自分の短歌が。(薄汚い人間の退屈な日常を拙い短歌にしたところで誰が読みたいものか!)と思い、詠めば詠むほど劣等感と自己嫌悪の沼に沈んでいくようでした。

状況が変わったのはツイッターを始めてからのように思います。それまでの人間関係の中では<山本左足>=<田中一郎>だったのが、ツイッターでは変わった。田中一郎を知らない人たちの中に交わることで、<山本左足>が単なる筆名ではなく、ひとりのキャラクターとして独立した、というか。そういう場に立つことでようやく俺は嫌いに嫌い、憎みに憎んだ田中一郎を捨てて、山本左足という人間として自由に短歌を詠めるようになった、そう感じました。

上手くなった、というのとは違うかもしれません。それよりも、俺は自分の、というか<山本左足>の短歌を好きになった。俺はいつもバカみたいに自分の短歌を好きだ好きだと言っていますが、正確には<田中一郎>が<山本左足>の短歌を好きだ、という感じです。もちろん二重人格ではないので、どっちも自分なのは間違いないんですが。

どうしようもなく哀しいのは、いくら短歌を褒められても認められても、それは<山本左足>の手柄であって、本体の<田中一郎>は相変わらず、最底辺の駄目人間、という自己像を抱えたまま「死にたい」「殺したい」ばかりの日常を過ごしている、というところ。短歌関係の知り合いに直接会うことにどうしても積極的になれないのはそのせい。<山本左足>というペルソナが剥がれて、本体が出てきてしまうのを見られるのが嫌で嫌でしょうがない。一生ピエロのメイクをしたままで過ごしたい。

俺は本名ではろくな短歌を詠めなかったし、本名で詠んだ短歌を好きにもなれませんでした。心の中の由無し事を自由に表現するためには、名前だけでも別人になる必要があった。しかしそのせいで、(俺は本名で言えないようなことを言っている)(他人に嘘をついている)というような罪悪感を常に持つようになってしまった。いや、もちろん短歌は本気で、そして本心で詠んでいるつもりなんですが。

だからこそ、本名で活動している歌人に憧れがあります。「短歌は本名で詠むべき」と誰よりも強く思っているのは、他ならぬ俺自身なのかもしれません。俺はたぶん一生本名では活動しませんが。

そんなこんなで今回はここまで。筆名についてはまだまだ調べたり考えたりすることが多いなあ、と感じた数日間でした。何か考えがまとまったり改まったりしたらまた書くかもしれません。「続々・筆名について」とか「又また・筆名について」とか「痛快・筆名について」とか(このタイトルがかつてテレ朝で放送されていた時代劇『三匹が斬る!』のものだと分かった人は、心の中で僕と握手!)

次回からはまた日記プラス短歌の感想、というスタイルに戻そうと思います。戻らないかもしれませんが。まあ、その時になってみなきゃわからんよね。

では、また。おやすみなさい。

筆名について

おばんです。

今日はツイッターで筆名に関する話題が多かったので、ブームに乗って俺も書いてみます。

といっても自分自身の筆名に関してはこれといった面白エピソードも無いので省略。今回はもうちょっと一般的な事柄について、自分の考えを整理するために書きます。

さて。

筆名に関してはまず第一に「使うべきでない。短歌は本名で詠むべきである」という考え方がかなり根強くあります。

これは一人称の文学である短歌に顕著な問題で、他の文芸ジャンルではもうちょっと大らかなんじゃないかと感じます。例えば小説家なら、女性でありながら男性名を名乗って活動したジェイムズ・ティプトリー・Jrや、あえて男女どちらにも使える名前を付けて覆面作家として活動していた北村薫らが居ます(薫といえば栗本薫も、初期の頃は後書きなどの一人称が「僕」だったはず)。ですが、短歌ではこういう事はおそらく認められません。

歌の内容に関しても、なるべくフィクションは扱わない、事実だけをありのままに歌うのが短歌だ、と考える人が、特に年配の方を中心に大勢います。短歌が私性の文学である以上、実体験を実名で歌うのが良いのだ、という主張は筋が通っています。

が、小説にだって私小説や純文学だけでなく色々なジャンルがあるように、短歌にも、エンターテイメントとしてフィクショナルな題材を扱うものがあってもいい。そしてそういう作品を詠むのなら、別に本名じゃなくても構わないのではないか。

…おそらくネットで短歌を詠んだり読んだりしている人にはこういう考え方の人が多いのではないかと思います。俺もそうです。こんなふざけた名前で活動してるくらいですから。

で、次に問題となるのは「どんな筆名がいいか」です。もっと端的に言うと「苗字はあったほうが良いか否か」。

これに関しての個人的な意見は、ツイッターでも言いましたが「本人が気に入ってれば何でも良いんじゃない?」という事に尽きるのですが、折角なんでもうちょっと詳しく。

絶対に避けたいと思うのが「筆名=匿名」となってしまうこと。たとえば筆名で何か失言をした後で、しれっと改名して後は知らぬ存ぜぬ、というのは論外だということです。自分の言動には責任を持たないといけない。

それともうひとつ。出来れば一生使える筆名を付けたほうがいい、とは思います。はじめは気まぐれでも、それが一生続く趣味になる可能性もある。それに、発表した作品はいつまでも記録と記憶に残るわけですから。詠み人知らずでもいいと言うならともかく。

正直に告白すると、俺は一時期、この筆名でなく本名でNHK短歌に投稿していたことがあります。たぶん二年間くらい。(何度投稿してもまったく採用されない!これは「山本左足」などというふざけた筆名のせいに違いない!)と思ってのことでしたが、本名で投稿したところでまったく採用されず(笑)、また筆名で投稿するようになってから何度か採用されました。名前が悪かったのではなく、単に歌が拙かったのです。恥ずかしい。

そんなことがあって以来、世に出る短歌はすべて山本左足名義で詠むようにしています。多分、本名で短歌を詠めと言われたら、いつものように詠めないと思う。筆名だったからこそ詠めた歌がたくさんあった。本名は本名でもちろん大切ですが、俺にとってはこの名前もとても大切です。

あと、蛇足を承知で付け加えるなら、世の中には「本名で実体験を」という考え方の人たちが大勢居るので、そういう人にも歌を届けたいと思うなら、やはり最低限人間の名前だと分かる程度の筆名を付ける必要はあるかと思います(笑)苗字は必須ですね、おそらく。

まあそうは言っても、「卓球短歌カットマン」で第三回歌葉新人賞を受賞したしんくわさんは12月に出す予定の歌集でもその筆名を使うようですし、やっぱり人それぞれだと思います。同じく新鋭短歌シリーズで来年3月に歌集を出す尼崎武さんはツイッターなどでは別の名前で活動されてましたが、歌集は本名(かな?)で出すと決めたようです。どっちが良いとか悪いとかじゃなしに、結局「本人が気に入ってるならそれでいいんじゃない?」という、そういう話。自分で考えて、自分で決めて、それに責任を持てれば、それでいいと思うんですよ。

筆名に関する話題は、深く考えていくと、作品と作者を巡る「私性」の問題に直面するんですが、そこを掘り下げていくと底無し沼に沈んでいくんで、今回はこの程度にしておこうと思います。

どんなキラキラネームだって全然良いと思うけど、筆名の場合、作風と見合った名前を付けないと後々後悔することになるかも。俺も早まって「もやし炒め旨男」という名前にしなくて良かったよ(以前そういうネタをツイッターで言っていたのです)。もやし炒め旨男という筆名に負けないような短歌を詠める自信が無いよ…。

そんなこんなで今日はここまで。おやすみなさい。

出頭

失業し週に一度は出頭すハローワークの何がハローだよ 瀧音幸司

第四回歌葉新人賞候補作『ユンボと水平線』より

おばんです。

今日は仕事が休みなので、久々にハローワークへ行ってきました。仕事探しがライフワーク。

そして帰りにコンビニでミルクティーと肉まんを買って食べました。とても美味しかったです。あと『ヤングジャンプ』と『少年チャンピオン』を読みました。とても面白かったです。

で、家に帰ってからお土産に買ってきた「ハローワークに行ってきました」とプリントされたクッキーを妻と食べました。苦しょっぱかったです。終わり。

…どうせなら本当に売ってればいいのに、そういう土産物。あと妻もどこかに落ちてればいいのに。

えー今日の短歌。言うまでもなく、下の句でのエモーションの爆発がこの短歌の魅力なわけですが、今日はあえて上の句に注目したいと思います。

主人公は失業していて、少なくとも週に一度はハローワークに通っている。おそらく失業保険を給付されているのでしょう。失業保険を貰う場合、四週に一度失業認定が必要。で、認定されるには月二回以上の求職活動をしている実績が必要、ということで、まあ毎週のように行かなければならないわけですね。

面白いのはハロワへ出向くことを「出頭」と表現しているところ。辞書でこの言葉を引くと

しゅっとう【出頭】

( 名 ) スル

官庁などの呼び出しを受けて出かけること。 「 -を求める」 「裁判所に-する」 「 -命令」

他より抜きん出ること。立身出世すること。 「主君の気に入りて知行を取り-しける程に/仮名草子・浮世物語」

主君のそば近くつとめること。主君の寵愛(ちようあい)を受けること。また,その人。 「鎌倉殿の-を鼻にかけ/浄瑠璃・ひらかな盛衰記」        
                         「大辞林」第三版(三省堂)より

とあります。まあ①の意味で使っているのだから取り立てて珍しい表現でもないのですが、パソコンで検索してみたら「自首と出頭の違い」というのが出てきて、それがちょっと面白い。

出頭とは、犯罪事実や容疑者がすでに発覚している状態で、犯人自ら警察に出向くこと。(「違いがわかる事典」より転載)

通常我々が役所に出向くときは普通「行く」を使う。「ちょっと市役所に出頭してくる」などとは言わない。作者がわざわざ出頭という言葉を選んだ背景には、この「犯人自ら出向く」という意識があるのではないか。

無論失業は犯罪では無い。無いのだけど、働かずに保険を貰って、他にやることもなく暇を持て余し…という生活は、おそらく相当なストレスと罪悪感をもたらすのではないだろうか。収入が無いことへの恐怖、仕事が決まらないことへの焦りと苛立ち、自分がもはや誰からも必要とされていないのではないかという絶望感。それらがこの「出頭」に集約されているのです。下の句の爆発を引き出す為の導火線の役割を見事に果たしているわけですね。

個人的にハローワークという名称は大嫌いで、また公共職業安定所に戻して欲しいと思っている。俺がいくらハローと言ったところでワークの野郎完全無視ですよ。どうかと思うよ…。

そんなところで今日はおしまい。酒飲んで寝ます。では、おやすみなさい。

フニクリ

いいパンツ過ぎるおんなは要注意 鬼のパンツはほぼいいパンツ 岡野大嗣

うたらばブログパーツ短歌「鬼」より

おばんです。節分の夜、といっても既に4日の午前4時ですが。いかがお過ごしですか。俺は疲れたよ。

節分については去年もちょこっと書いたので今回は割愛(去年の記事はこちら)して、さっそく短歌の話に移ろうと思います。今日はほかに書くことも無いし。

いいパンツではじまりいいパンツで終わるいいパンツ短歌。「いいパンツの日」があったら今日紹介するのは止めにしてその日まで取っておこうと思ったのですが、調べたら無いようだったので今日取り上げます。ちなみに「パンツの日」は8月2日だそうですよ。

2011年8月2日が100年に一度の「いいパンツ」だったわけですが、残念ながら逃してしまった事が悔やまれます。まあ2011年にはまだこの短歌自体発表されてないんですが。

ん?いや、別にパンツの話がしたいんじゃなかった。

まあパンツの柄や種類に限らず、女はほぼ鬼です(断言)。結婚する時にもわざわざ角隠しが必要なぐらいですから。

というのはともかく。あまり風流を解さないので能や歌舞伎には疎いのですが、『葵上』や『黒塚』のように、人間の女性が鬼になる話というのは結構ありますね。『道成寺』の清姫…は蛇か。でも能面(怨霊面)では生成り→般若→真蛇、という風にランクアップ(?)していくようなので、清姫も鬼の一種なんですかね。鬼=蛇、というのがよく分からないのですが。そもそも般若だって元は「智慧」を意味する言葉なはずだし。なぜ鬼になる?

まったくの門外漢なんでテキトーな事ばかり言ってますが、何となく、地獄なんかに居る男の鬼は最初から、種族として「鬼」という感じなのに対して、女の鬼は、人間が恨みで鬼になったもの、という印象があります。男で鬼に変わるのなんて「仮面ライダー響鬼」ぐらいでは?違うか。

まあ男の鬼と女の鬼の違いはいろいろあるでしょうが、一つ共通しているのがどちらも「いいパンツ」だということに他ならない。のです。うん。

強引に短歌の話に戻しますよ。これ以上能の話をしようにも俺には知識がまったく無いんだ。ごめんな。

さて。童謡『鬼のパンツ』は元々、イタリア登山電車のPRソング『フニクリフニクラ』の替え歌。この短歌はその更に替え歌、というか所謂「本歌取り」ですね。そういえば、『鬼のパンツ』はずっと作詞者不詳だと思っていたのですが、毎度おなじみwikipediaによると『ビューティフルサンデー』のヒットで知られる歌手の田中星児が作詞者だとか。ホンマかいな。

お、田中星児はグッチ裕三の従兄弟だそうですよ。どうでもいい?うん、俺も。

この短歌のポイントはもちろん「ほぼ」です。このたった二文字に、一瞬人を立ち止まらせる力がある。定型句のなかにこれが紛れ込んでくることで、その違和感が引っかかりになって思わず立ち止まってしまう。作者の思う壺です。全員がいいパンツじゃないのか、鬼の世界も格差社会なのだなあ、と、暗い気持ちになります。

いやまあこの短歌は「いいパンツをはいている女は鬼かもしれないから気をつけろ」と読むのが普通なんですが、どうも俺は脱線しかけているようで、安物のパンツをはいている鬼の哀しさ、みたいな方にちょっと気持ちが移っちゃってますね。どうしたものやら。

だいたい「要注意」と言われたところで、相手がいいパンツかどうかを判断できるようなシチュエーションになってしまったらもう、注意のしようが無いじゃないですか。「思ったよりいいパンツだったから、今日はちょっと…」とか言ったら、鬼じゃなかった人も鬼になっちゃいますよ。真蛇の面とか超怖かったよ。ググるんじゃなかったよ!

まあともかく。「パンツ」という単語が三回も出てくる短歌というのはおそらく他に無いのではないかと思います。リズミカルでコミカルで、なおかつ妄想のし甲斐もあるという素敵な一首。

よし。今日はここまで。いつもより余計にとっ散らかった文章になってしまい申し訳ありません。反省はしてますが後悔はしてません。

そういえば岡野大嗣さんの歌集『サイレンと犀』の感想も以前書きました。そっちは少し真面目に書いているのでよければ読んでみてください(これです)。『サイレンと犀』は良い歌集。

そんなこんなで今日はここまで。ってもう朝じゃねえか!

おやすみなさい。

煙草嫌い

風に背を向けて煙草に火をつける僕の身体はたまに役立つ 木下龍也

歌集『つむじ風、ここにあります』より

おばんです。

WHO(世界保健機構)が、「世界の若者たちを喫煙に誘導している」などとして、喫煙シーンのある映画を成人指定にするよう各国に呼びかけた、というニュース。

俺は煙草はまったく吸いませんが、どうにも、昨今の禁煙ブームは異常なんじゃないかと思うこともしばしば。

ちょっと前に放映されていたTVアニメ版『ジョジョの奇妙な冒険』で、主人公の空条承太郎が煙草を吸う場面だけ不自然に口の周りが黒く塗り潰されていたのも違和感があったけれど、まあ、承太郎は高校生だから喫煙シーンはNGというのなら百歩譲って分からないでもない(フィクションなんだからいいじゃねぇか、とは思うけど)。

だが、映画のなかで、大人が普通に煙草を吸っているシーンがあるだけでR18指定になるというのは流石に理解を超える。

何だか魔女狩りのようだと思う。「喫煙者」という仮想敵に対してならどれだけ残酷な仕打ちをしても許される、というような風潮を感じる。ガラス張りの喫煙所にも悪意を感じる。見世物にしてやろう、というような。まあ、考えすぎかもしれないけれど。

映画での喫煙シーンが未成年に悪影響を及ぼすというのなら、自動車の運転シーンはどうなのか。多くの未成年が様々な映画でレースシーンやカーチェイスシーンを視聴し、その影響で大勢が自動車に乗っている。おそらく、無免許運転をする人の大半はそういった映画を過去に見ているだろうし、そもそも、自動車による死亡事故は煙草による害の比ではない。

なぜWHOは自動車の出ている映画を成人指定しろと言わないのだろうか。謎だ。

…というのは勿論冗談だけどね。

さて今日の一首。

風を遮るように背中を丸めて煙草に火をつける男。それこそ映画の一場面のような、非常に映像的な上の句。対して、下の句はその男の心理描写となるのですが、ここでのポイントは「たまに」です。これがこの歌のすべてだと言ってもいい。これを除くと「僕の身体は役立つ」となり、一見ポジティヴなことを言っているように思えます。が、そこに「たまに」が入ってくるだけでまったく逆の意味合いになる。自嘲的に笑う男の後姿が見えてくるようではないですか。あンた、背中が煤けてるぜ…。

とはいえこれを「俺の身体なんて風除け程度にしかならない」と言ってしまっては詩にならないわけです。単なる愚痴になってしまう。役立つ、と言い切ることで、初めてこの雰囲気が生まれる。そのギリギリのポイントを見事に見極めた、凄い一首だと思います。

うちの近所の大学でも、最近まで屋内にあった喫煙所がすべて屋外になったとか、そもそも喫煙スペース自体が無くなってしまったとか、そういう話をバイトの子たちから聞き知るにつけ、(そこまで苛めなくてもいいんでは…)と思ってしまいます。まあ、俺は煙草なんて不健康なモン吸わないから関係ないんですけどね。

ひとつぐらい 脱ヘルシー
人間だもの
当然だといいながら      (奥田民生「たばこのみ」より)


では、また。おやすみなさい。