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とりあえず、無題

おばんです。

最近短歌界隈を賑わせている虚構の議論(今年の短歌研究新人賞受賞作である、石井僚一さんの作品『父親のような雨に打たれて』を巡る一連の議論)に関して、様々な論を読めば読むほど、考えれば考えるほど混乱してくる現状。

短歌は小説などと違って、一人称であることが大前提となる詩形。だからこそ、ややこしい。

短歌で虚構を扱うことの是非は、多分誰も問題にはしていない。是であることは自明である。

結局、新人賞という選考の場で、匿名で、フィクショナルなテーマをノンフィクションの手法で扱ったことに対する倫理的な是非、ということが一番問題視されていることなのかもしれない。

とはいえ、倫理的に、とか言い出すと、作品に対してではなく作者に対しての攻撃と捉えられかねない訳で(一人称文学ゆえのジレンマであるね)、それはやっぱり避けたいわけだ。あくまで作品論、そして短歌全般における問題、という風にしたい。しかし、それだとやっぱり少し矛先が鈍る、というか、向ける先が違っているような感覚が拭い去れないような・・・。

個人的には、虚構の題材を選考委員に「ノンフィクションだろう」と思わせ、受賞相当であると思わせた作者の力量を素直に評価したいと思うし、作品の力を評価したいと思う。

まあ、そう単純な問題でもないんだろうけど。各人の発言を見聞きするにつけ、揺れ動く心。自分の中で結論が出ていないことについて言及するのはどうかと思うのだけど、現時点でのまとめとして。

ツイッターでも書いたことだけど、ネタバレのタイミングがあまり良くなかったのかなあ、という印象もある。これが例えば10年後くらいに「実は新人賞を受賞した時点ではまだ父は健在で、あれは~」とかやれば、かえって評価をあげることになったかも。

虚構の主題を扱うなら、作者自身にも相応の覚悟が必要ということだろう。自分自身が実生活から一歩切り離された、虚構の存在になる覚悟。塚本邦雄や寺山修司にはその覚悟があったようにも思う。あくまでも作品を読んだ上での印象論なので、実態はよく分からないのですが(不勉強を自覚してるならこんなこと書くなよ・・・)

矢沢永吉がどこまでも「E・YAZAWA」であり続けるような。それはもはや覚悟ではなく、才能に類する事柄なのかもしれないけれど。

ひとつ危惧するのは、今後、新人賞などの場において、挽歌というジャンルが色眼鏡で見られるようにならないか、ということ。あくまでも「作品本位」であってほしいと願う。

今日はなんか真面目ぶってしまった。こういう風に振舞うと返って底の浅さが際立つ(笑)
明日からはまたテキトーにやります。

では、おやすみなさい。
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