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推敲 その二

おばんです。

昨日に引き続き、推敲の話。今日取り上げるのは次の短歌です。

楽しくて役に立たないものがいい例えばスーパーボールのような

以前自選30首の中にも入れた(→これ)、お気に入りの一首。

この歌の最初の形は、たしか、

スーパーボールのようになりたい役立たずでも何となく楽しいものに

だったように記憶してます。細部はさすがにうろ覚えですが。

その後、上の句と下の句を入れ替えるような形にして

楽しくて役に立たないものになるスーパーボールみたいなものに

へと変わり、(いや、役立たずに「なる」と自発的に宣言するのは何か違うな…)と思って改良した結果が最初に挙げた完成形。

ほぼ語順しか変えてないのですが、読み比べると違いが分かってもらえると思います。多分…(やっぱり自信無し)。

自作解説が野暮なのは百も承知ですが、あえて言うと、完成形のほうはまず「役に立たないものがいい」と、既存の価値観を否定するようなことを言い、それに対する答えのような感じで「スーパーボール」を出す。それによって読者に「なるほど」と思わせるような仕掛けになっているのですが、一方、原形のほうだと下の句は単にスーパーボールの説明でしかなくなってしまってます。

いやー、語順って大事ですね。

そういうことを意識するようになったのは、穂村弘さんの有名な短歌を読んでから。

終バスにふたりは眠る紫の<降りますランプ>に取り囲まれて (穂村弘)

これを、野暮は承知であえて語順を変えて改悪してみます(済みません)。

改悪例:紫の<降りますランプ>に囲まれてふたりは眠る終バスのなか

何ということでしょう!匠(俺)の手にかかると、あの名作があっという間に台無しに!

穂村さんの歌は、読者の視点誘導が巧みです。まず「終バス」、そのなかで眠っている「ふたり」、更に「降りますランプ」へ。マクロ的なものからミクロ的なものへと視点が移動して、最後「取り囲まれて」で再びバス車内の様子へと戻る。場面の描写が鮮やかです。

対して改悪例は匠(俺)の業。原作とは逆に小さいものから大きなものへの視点移動ですが、大きいと言ってもせいぜいバス車内まで。ぐっとスケールが小さくなります。

更にもう一点。原作を読んだ人は誰もが「走っているバス」を想像すると思います。夜の中を走る終バス。その中でねむり続ける恋人たち。二人だけの世界、と強く印象付けられます。「移動式ユートピア」とでも名付けたくなるような。「降りますランプ」が点っているということは、それを押した第三者が存在するはずなのですが、何となくそれを否定したくなる。乗客どころか運転手さえも居ないバスが、どことも知れない場所を走っている。明けない夜の中を、ねむる二人を乗せたまま、降りますランプを灯し続けたままで。そういう、幻想的な雰囲気を感じさせます。

対して改悪例のほうでは、「降りますランプ」という言葉のほうが先に出てきてしまいます。これじゃバスのドライブ感がありません。停まっちゃってます、バス。盛岡駅を出発して上盛岡で停まっちゃってます。台無しです。何ということでしょう。

構成している要素はほぼ一緒でも、語順を変えただけで印象はガラッと変わってしまう。
それが短歌を作る難しさでもあり、面白さでもあると思います。

では、また。おやすみなさい。
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