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で、「クラスタ」って結局どういう意味よ?

おばんです。

今回は昨夜俺がツイッターでちらっと呟いたことに関して。

これな↓

ツイッターにおける所謂「短歌クラスタ」は、ここ二年ほど緩やかに活力を失ってきていると思う。このまま衰退していくのか、新しい流れが出来るのか。一方、10代、20代の人たちにはいろいろな動きもあるみたいで。単なる世代交代なのか、とも思いつつ。どうなっていくのか興味津々な2015。

この時は「活力を失って衰退」と書いたけど、その後ちょっと考えを改めた。おそらく、俺がよく名前を見聞きする20~30代の歌人達にとって、ツイッター上での関係性というのはあまり必要が無くなったのだろう。「役目を終えた」というのが、本質に近いのではないか。

まったく知らない人や、名前と作品くらいしか知らない人とツイッターで親しくなる→歌会やイベントなどで実際に顔を合わせる→現実の知り合いになるのでツイッターでの交流があまり必要なくなる、という大まかな流れがあり、それが加速したのがこの二年あまり、という感覚。それを俺は「衰退」と感じていたわけだ。

俺が把握できる範囲で、ツイッター短歌関連の出来事を時系列で整理してみる。

・うたらばブログパーツ短歌 第一回テーマ「お祭り」の発表が2010年7月

・『うたつかい』 創刊 2011年9月

・空き地歌会 第一回は2011年11月26日開催

・うたらばの集い 2012年3月25日開催

・空き家歌会 第一回は2012年6月23日開催

・大阪短歌チョップ 2014年7月19日開催

らしい(いずれもホームページの情報を参照しましたが、もし間違いがあるなら訂正しますので連絡お願いします)。

ちなみに、俺が友人に唆されてツイッターを始めたのは2011年の12月のようだ。どうでもいいけど。

見るとわかるように、空き地歌会→うたらばの集い→空き家歌会、と、オンライン上ではなくリアルに顔を合わせて行うイベントが3ヶ月に1回ずつ開かれている。おそらくこの頃が「ツイッター短歌クラスタ」としての活動のピークだったのではないか。

ツイッターの出現は、短歌のようなマイナーなジャンルを愛好する者にとって画期的な出来事だったはずだ。コミュニケーションの幅が広がって、点と点が線で繋がっていく。その感覚に、誰もが熱に浮かされたようになっていた。遅ればせながら通りかかった俺も、その熱気を感じていたので、だから、今のタイムラインは温度が低いと感じるんだろう。ただ、実際は今の状態が平熱だというほうが正しい認識な気がする。

そういえば俺はうたらばの集いにこんな短歌を出した。

夜空からはみ出している星だけを繋いで作る新たな星座

・・・なんか、ちょっと象徴的ではないかw この歌を何人かのフォロワーさんから誉めてもらったことで、「うたらば」への投稿を続けることや「うたつかい」に参加したりする勇気を持つことが出来た。そんなわけで、実際に参加したわけじゃない俺にとってもうたらばの集いは特別なイベントだった。

まあ、別に今すぐツイッターが無くなるわけでもなし、今年も来年も何も変わらずに続いていくんだろうけど、ただ、あの当時の熱気はもう、少なくとも俺の身辺では感じることは無いのだろう。それは良い事でも悪い事でもないし、正しくも間違ってもいないけれども、ツイッター以外にコミュニケーションの方法を持たない俺としては、やっぱり、ちょっと寂しいよな。

てなわけで、また。以下は単なる妄想文なので、読まなくていいよ。おやすみなさい。


ある星にひとりの男が住んでいた。
男の周りには、男に似た生き物は住んでいなかった。男は、自分はこの星で一種一体しかいない生き物なんだろうと思っていたし、それが当然だと思っていたので、寂しいとも悲しいとも思わずに暮らしていた。
ところがある日、男のもとに別のニンゲンからのテレパシーが届いた。自分にテレパシー能力があることすら知らなかった男のもとに。
自分と似たようなニンゲンが他にも存在することを知った男は、はじめて「寂しい」と感じた。テレパシーが届かない日が続くと「悲しい」と思った。

あるニンゲンが、思念波を増幅する装置を作ることに成功した。「ツイッター」と名付けられたその装置は爆発的に普及し、多くのニンゲン達が空間の壁を越えたコミュニケーションに夢中になった。男は狂喜した。自分はもう、ひとりではないのだ。これを使えばいつだって、どこに居るニンゲンとだって話が出来る!

・・・だが、数年経つと状況はまた変化した。テレパシーでの交流に飽き足らなくなったニンゲン達が、「リアル」という、新たなコミュニケーションツールを使い始めたのだ。言語と、身体によるコミュニケーション。それは、テレパシーによるものとは比べようもないほど刺激的だった。ニンゲン達はみな「ツイッター」を捨て、「リアル」を使うようになった。だが、「リアル」はとても高価なもので、男のような生活をする者にはとても手に入る代物ではなかった。
男は、またひとりになった。「寂しさ」と「悲しみ」を知って。

・・・更に数年が過ぎた。「ツイッター」には、「リアル」ユーザーに対する呪詛の言葉が溢れている。「リアル」を手に入れられなかった者達の嫉妬と羨望。無論それは「リアル」のユーザーには届かない。彼らはテレパシー能力を捨てたのだから。

そんな中、男は、今日もツイッターに語りかける。「おはよう、おやすみ、また明日」と。

これは遭難信号だ。ただ、自分自身に対するものではない。
他の「ツイッター」ユーザーへ向けたものだ。

「君だけがひとりなんじゃない。俺だってひとりだ」と。

返信はない。星も光らない。それでも、遠い夜空へ向けて。

一人きり生まれて死んだ人がいて幸せだったと誰も知らない
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コメント

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羨望

こんにちは。述べられている考えに共感します。
劣等感に悩む→自虐する→周囲を羨む→少し癒される
という怨念スパイラル。僕自身、折々嵌まります。
理解ある人々に背かぬようにと意識した僕の行為が、
裏目に出てしまう一要因とも感じました。

俊昭さんへ Re: 羨望

> 理解ある人々に背かぬようにと意識した僕の行為が、
> 裏目に出てしまう一要因とも感じました。

おっしゃること、とても良くわかります。
相手に気を使うあまり、相手の気持ちに反してしまう。
自然体でいなければ、と思いつつ「どういうのが自然体なんだ?」
と悩んでしまったりw
ただ「羨望」というのは必要な感情だとも思うのです。
それが無ければ停滞してしまう。
「羨望」が「嫉妬」になり、所謂リア充への「憎悪」へと変わる。
そういう風になることだけは避けたいですね。じゃないと、惨め過ぎるw
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