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映画『そこのみにて光輝く』の感想

おばんです。

今日は映画の感想。といっても既にツタヤで一週間レンタルになっていたものなので、半端じゃない今さら感ですが。しかも気づいたらキネマ旬報の年間ベスト1にもなったそうで、いよいよもうこんなところで俺が語るようなことは何も残って無いんですがw まあ、心に響いちゃったので。

舞台は90年代(と明言されてないですが、原作だとそうらしい)の函館。安アパートで一人暮らしの訳あり無職・佐藤達夫(綾野剛)は、パチンコ屋でやたら人懐こい若者・大城拓児(菅田将暉)と出会う。拓児に「飯食わしてやる」と誘われてついて行くと、行き着いたのは海辺に建つぼろぼろのバラック小屋。達夫はそこで拓児の姉・千夏(池脇千鶴)と出会い、やがてお互いに惹かれ合っていくのだが・・・、と、出だしはこのような内容。

まず、拓児と千夏の家庭環境がもう絵に描いたような極貧。脳梗塞で倒れて以来寝たきりの父、その看病に疲れ果てて無気力無感動の置物みたいになっちゃってる母。喧嘩で刑務所に入っていた拓児は現在仮出所中の身で、一家の支えである千夏は週三日の工場勤務だけでは生計をたてることが出来ず、場末のスナックで体を売るようなことまでしている。
その金額が一回(?)8,000円!というのにちょっと驚いたんだけど、よく考えたら相場が分からないんで何とも。いくら何でも安すぎると思うのだが。しかしまあ何と言うか、千夏の境遇は江戸時代の遊女(いやそれよりも宿場町に居た飯盛り女か)のようでもあり物悲しい。しかもその現場を達夫に見られてしまったりするのだから、もう・・・。

一方主役の達夫はというと、かつて仕事中の不手際で同僚を死なせてしまい、その自責の念から自暴自棄になってしまっているやさぐれ男なのだが、若干悲劇の主人公ぶってる感じもなくはない。そんな達夫が、自分より悲惨な境遇の姉弟と知り合い、ふたりの為に何かをしたい、という思いから過去のトラウマを克服していく、というのが達夫の側のストーリーなのだが、正直、千夏と拓児のストーリーのほうがメインになっている感は否めない(とはいえそれは物語が要請する必然でもあると思う。後述)。

いやもう、とにかくメインキャストの3人が素晴らしいのですよ。特に池脇千鶴はもはや神々しくさえある。単に演技力があるとかいうレベルではなく、仕草や表情、果ては身体つきまでも(まあこれは偶然の産物かもしれないがw)千夏というキャラクタと完璧に一体化している。『ジョゼと虎と魚たち』が女優池脇千鶴の完成形かと思っていたが、まだ先があったかと。凄い。
綾野剛の場合は「当たり役」というべきかもしれない。正直演技力は今ひとつという気もしなくもないが(ファンの人済みません・・・)、不器用そうな感じ、所在無げなたたずまい、ぶっきらぼうなセリフ回しなどが、奇しくも達夫という人物を演じるのにこの上なく嵌まっているのだ。
そして菅田将暉。馬鹿でいい加減でやんちゃだけど憎めない拓児を好演している。正直名前ぐらいしか知らなかったのですが、近作でファンになりました。良い。
あと一人、造園会社の社長を演じた高橋和也も挙げておきたい。妻子持ちでありながら千夏と不倫関係を続けるゲスな男を演じているのだが、これがもう本当に名演。ちょっとしたセリフや仕草が妙にリアルで、(ああ、こういう奴いるよなあ)という感じ。出てくるだけで厭な気分になる(褒め言葉)。自分の性器に唾を付けてレイプ同然に千夏を犯すシーンとか、もう最高にゲス。ゲスの極m・・・言わねーよ。何気にストーリーの中でも重要な役割を果たす人物。

性器云々の話が出たのでついでに言っておきますが、全編に渡って性描写が頻出します。特に寝たきりの父親の性処理を娘の千夏が行うシーンとか、直接的なカットは少ないもののなかなかエグいです。そこは注意が必要。家族そろって見るような映画ではないです(言うまでもないことですがw)

さて。以下は物語の直接的な内容からはちょっと離れるかもしれない、感覚的な感想(とか言いつつ結構ネタバレしてますw ご注意ください。映画を見てから読むのを推奨)。

物語の舞台は函館市となっているが、実際は、それよりもっと寂れた、どこか、この世の果てのような海辺の田舎町、という雰囲気がある。真夏なのに紫陽花が咲いていたりする描写も、どこかファンタジーを感じさせる。そしてこの町では時間が止まっている。永遠に続く夏、永遠に続く日常。地獄のような、この世の果て。
この映画の真の主役は、実は、この「町」そのものではないか。
千夏は、町に呪縛されている。寝たきりの父、無気力な母、仮釈放中の弟。彼女には彼らを見捨てることが出来ない。
高橋演じる造園会社社長・中島はこの町の顔役であり、町そのものの象徴のような存在である。当然、千夏は中島からも逃げられない。未来を諦め、夢を捨てて、時間の止まった町の中に己のすべてを埋没させようとしている。

達夫は町の外からやってきた「よそ者」である。彼は町のルールに囚われない。千夏に夢を与え、中島に歯向かい、拓児を山へ(町の外へ)連れていくと約束する。達夫のストーリーがこの映画の本筋にならないのは必然である。彼はこの世界における「招かれざる客人」だからだ。主人公というよりも、トリックスター的な役回りなのだ。

達夫の目は過去だけを見ている。千夏は時が止まったまま現在に埋没している。その二人が出会うことで、はじめてお互いの「未来」に目を向けることになる。

もう一人、達夫や千夏よりももっと無邪気に自分の未来を夢見ている男がいる。拓児である。登場人物の中でただひとり、彼だけは、自分の都合ではなく常に他人のために行動している。家族のため、友人のため、そして中島のためにも。はじめ、彼は中島の部下として、「町」に奉仕する者として登場する。しかし徐々に立場を変え、達夫と中島を引き合わせて以降は、町の象徴である中島の元を離れ、よそ者の達夫と接近していく。彼の行動は町に変化をもたらし、それが、やがて夏祭りの悲劇へと繋がっていく。彼が仮釈放中の身であることは偶然ではない。彼もまた「よそ者」なのだ。

自分と家族の明るい未来を無邪気に夢見る拓児もまた、町のルールの外側にいる(トリックスターという意味では、むしろ彼のほうがその称号に相応しいのかもしれない)。彼が中島をアイスピックで襲うのも、そしてそれが夏祭りの夜であるのも、もちろん偶然ではない。彼のその行動によって、止まっていた時計はまた動き出し、そして、夏が終わる。よそ者の一人である拓児はまた他所へと姿を消す(自首しに行くときの軽やかなステップは印象的である)。残された達夫と千夏に「未来」を託して。海辺にたたずむ二人を朝日が照らすラストシーンは、本当に美しい。タイトルの示す「そこ」とは、「町」のことでもあり底辺の「底」でもあると思うのだが、何よりもあの場面、あの一瞬を指し示す言葉なのだろう、と、そう思った。
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