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二つの甲子園と2015年の夏について(その2)

おばんです。

昨日中途半端になったので、今回も甲子園の話を書こうと思います。

何と言っても清宮の魅力は・・・、あ、そっちはもういい?
まあねえ。野球経験の無い素人の語る野球談義なんて退屈の極みだわな。

さて気を取り直して。今回取り上げるのは同じ「甲子園」でも野球ではなく短歌のほう。
高校野球は今年で100年目ということで大々的に取り上げられていましたが、こちらも、桁はひとつ違うものの今回で10回目の節目となる「短歌甲子園2015」を見てきたので、その感想などをちょっと書こうと思います。

と、その前に余談をひとつ。「短歌甲子園」という大会は同時期に二ヶ所で開催されてます。
岩手県盛岡市で開催されているものと、宮崎県日向市で開催されている「牧水・短歌甲子園」です。俺が見てきたのは盛岡でやったほう。

ややこしいからどっちか名称を変えればいいのに、と思うんですよね。そうすれば一々こんな注釈を書かなくても済むんですが。特に今年は開催日も重なったりしてちょっと混乱しました。

そもそも高校生の大会だからってだけで何にでも「~甲子園」って付けるのが嫌いなんですよ。甲子園でやるわけでもないのに。調べてみたら宮崎の大会は今回5回目のようですが、それだと、当然岩手でも短歌甲子園をやってるのは知っていたはず。

・・・何が何でも「甲子園」って付けたかったのかなあ。理解に苦しむ。

あ、別に起源主張がしたいわけではないです。そもそも「~甲子園」的なネーミングが気に入らないってだけの話。「啄木短歌大会」とか「牧水短歌大会」ではダメなのだろうか。

あと、どうせなら開催時期も半年ずらすとかすれば、どちらの大会にも出られていいのになあ、とも思いますね。その辺上手いことやればいいのに。

まあ、それはどうでもいい話でした。

さて、短歌甲子園。俺が見に行ったのは8月21日(金)でした。本当は20日も見に行くつもりだったんですが、本家本元の甲子園で仙台育英が決勝まで残ったので急遽そっちの応援(無論テレビで)をすることにしたのでした。なお結果は・・・。でも、本当にいい試合だった。

そんなこんなで21日。いつものように寝坊した俺がバスに揺られて会場の盛岡劇場に着くと、ちょうど団体戦の二回戦が始まるところでした。タイミングばっちり。受付でパンフレットと個人戦の全投稿作品を一覧にしたプリントを手に入れて、ニヤニヤしながら会場入り。場内は参加者とその関係者と思しき人がほとんどで、部外者は俺ひとりなんじゃないかというような雰囲気。何となく悪いことをしているような気分で隅っこの席に陣取り、二回戦の詠草と審査員との質疑応答をチェックして(これは赤の勝ちだな)などと無責任なことを考えつつ、個人戦の作品にも一通り目を通します。誰からも頼まれてないのに大忙し。

そうそうルール説明。団体戦は三人一組の紅白戦。参加者は決められたお題に沿った短歌を交互に発表し、審査員との質疑応答を経て、最終的には五人の審査員の投票により優劣が決する、というシステム。二勝したチームが勝ち上がりです。

もちろん高校生の作品なので結構デキにばらつきがあります。こちらが唸るような凄い短歌もあれば、着眼点は面白いのに言いたいことが上手く纏まっていないものもある。

しかしそのどれにも高校生にしか詠めないような機微、十代でなければ出てこない発想や思いが込められているようで、最早四十代間際のオッサンとしては胸が熱くなるんですよ。

俺も高校生の頃に短歌を始めたかった。そして美人の先輩にマンツーマンで指導されたかった。句跨がったり句跨がられたりしたかった。そして「あなたって字余りね」って言われたかった…!

やっぱり俺も高校生の頃に短歌を始めたかったなあ。そして盗んだ俳句を賞に出したり、束ねた短冊で夜の校舎窓ガラス壊して回ったり、軋むベッドの上で優しさを持ち寄ったりしたかった…!


というような気分になるわけです。因みにこれは去年の短歌甲子園を見たあとのツイッターへの書き込み。トチ狂ってますね。

まあそれはそれとして。
俺も一応短歌を詠むので、エア審査員として作品を見ているわけですが、残念ながら勝敗予想は結構外します。これは俺に見る目が無いのではなく、敗れた高校生の作品にも光るところがあったという事なのでお間違えなく。審査では負けたかもしれないが、その短歌の良さ、俺にはちゃんと分かってるぜ!何の足しにもならないけどな!

さて。それではいくつか短歌を紹介してみませう。パンフレットには「ホームページ・ブログなどへの転載については、本大会で作られた作品である旨を明記のうえ、掲載することを認めます」と書いてあるので問題無いとは思いますが、もし何か問題があったら対応しますのでご連絡をお願いします。あと作者や学校の関係者で「名前を出されると困る」というような場合にも、即刻削除しますので連絡してください。

では。

悪気なく決めた
明日君と話せたら
ギターができると嘘をつこうと (水戸葵陵高等学校 戸田志門)


話題賞を獲得した作品。題は[嘘]だったと思います(曖昧で済みません)。「悪気なく」が面白いです。
同じ作者の作品では

黒板の数式
にょきにょきのびてゆく時
ぼくがただ遠く見ていたい時 (茨城県 水戸葵陵高等学校 戸田志門)


も好きでした。こちらの題は[時]。「にょきにょき」がいいですね。みるみる成長して、どんどん異形の怪物になっていく数式。そりゃ近づいちゃいけません。

あ、そういえば。岩手県の短歌甲子園では作品はすべて三行書きで発表されます。石川啄木に因んだ大会だからってことでしょうね。基本的に短歌は一行書きのほうがすきなのですが、どの句で行を分けるかというところにも作者の工夫が感じられて、これはこれで面白い。

ベトナムの森に鉛を撃ちし祖父
水鉄砲で
我と戯る (青森県立八戸高等学校 ガルブレス・サムエル)


啄木賞を受賞した作品です。題は分かりません。申し訳ない。

この歌、会場で見たときは「結句が啄木の本歌取りになってるんだな、上手いな」としか思わなかったのですが、上の句「鉛を撃ちし」も「訛りなつかし」とかかってるんですね。祖父との思い出をもとに、深いテーマをさらっと歌いつつこんな遊びまで。上手いなあ。

「初めて私、貴女に嘘をつきました。」
白い光が滑って
いった (茨城県 水戸葵陵高等学校 矢澤愛実)


特別審査員を務められた歌人の小島ゆかりさんから「小島ゆかり賞」に選ばれた作品です。題は[嘘]。あえて硬質な表現を使って、瞬間的な心の揺れを上手く歌っています。鍵括弧や行分けの工夫も効果的。

最後に個人戦で一位となった作品を二首紹介します。

まだ君は眠っているだろう
静けさの
自転車置き場は海に似ている (岩手県立盛岡第四高等学校 土谷映里)


題は[似]。個人戦、団体戦を含めたすべての作品の中でも、個人的には今回一番好きな歌でした。下の句が魅力的。

我の名を忘れてしまった祖母は今
微笑んでいる
桜満開 (青森県立八戸高等学校 小川青夏)


こちらの題は[笑]。孫の名前を忘れてしまった祖母への、それでも変わらぬ優しさと愛情。それを直接自分の感情として言うのではなく「祖母が微笑んでいる」「桜が満開である」と、情景描写だけで伝える技術。素晴らしい歌だと思います。

団体戦の優勝は岩手県立盛岡第四高等学校、準優勝は水戸葵陵高等学校でした。楽しかった。来年も行きます。不審者だけど通報しないでね。

そういえば、21日は短歌研究新人賞の受賞作が掲載された「短歌研究」の発売日でもありました。俺は今年は応募してないので何も関係なし。来年獲るからいいけど(一応毎年言う決まり)。

長くなりましたが今日はこの辺で。今から来年の甲子園が楽しみでなりません。野球も、短歌も。

サヨナラといふ勝ち方と負け方がありて真夏の雲流れゆく (小笠原和幸)

小笠原和幸さんも啄木と同じく岩手の歌人。そういえば短歌研究新人賞の受賞者でもありますね。今回のブログの締めに相応しい。大好きな一首。

ではまたそのうち気が向いたら何か書きます。

生きてたらな。

では、おやすみなさい。

二つの甲子園と2015年の夏について(その1)

おばんです。山本左足です。

8月も残りわずか。めっきり涼しくなりましたね。俺は昨夜ついに毛布を引っ張り出してきてしまいました。いつもは「嫌だ!まだ夏なんだー!!」と言い張りながらガマンするのですが。寄る年波には勝てませんな。

さて、今回は甲子園の話。

1915年の第一回大会から100年目の節目となった今年の全国高校野球選手権。世間的には早稲田実業の清宮君が話題でしたが、俺的にはとりあえず、ちょうど開幕した8月6日に今年何通目かもう覚えていない不採用通知を受け取りまして、どよ~んとした気分で飲んだくれる日々が続いていたので、早実の試合はほとんど見ておりません。だって毎回早朝の第一試合なんだもの。

高校生はこんな朝っぱらから全力で野球なんかやってスゲーなあ、と思いつつ、テーブルの上に日々増えてゆく酒瓶の列を眺めて、溜め息をつきながら布団に入る。そんな毎日。

とにかく暑かった。俺の部屋は日当たりがあまり良くないのと風が結構入るのとで、夏は比較的涼しいのですが、今年はかなり暑かった気がします。毛布が恋しい今となってはそれすら懐かしいですが。高校生はこんな暑っついなか良く野球なんか出来るなあ、と・・・。

まあそれはさておき。今年は清宮幸太郎をはじめ小笠原慎之介、オコエ瑠偉、平澤大河らタレント揃いで面白い大会でしたね。高校野球百年の節目に相応しい良い大会だったんじゃないでしょうか。よくわからんけど。
そういえば、大阪では初戦(二回戦)で優勝候補の大阪桐蔭と履正社がいきなり当たって、地方球場に観客が詰め掛けて大渋滞になったとか、TOKYO MXで放送していた西東京大会が夕方5時で終了したせいで、ちょうどその時間に試合していた早稲田実業対八王子の試合が中途半端になってしまい「清宮見せろ!」とツイッターが炎上したとか(笑)、地方大会からいろいろ話題に事欠かない今年の大会でありました。

俺は岩手県民なので岩手代表や東北の代表校を毎年応援するのですが、残念ながら今年も優勝旗には届かず。しかし準優勝した仙台育英はもちろん、東北六県のうち五県の代表校が初戦突破の活躍(福島聖光は優勝した東海大相模と当たったのが不運だった)。近いうちに必ず優勝するだろうと信じたい。信じてる。

あと、俺も近いうちに就職できると信じたい。誰か仕事くれ。

そういえば、今年は数年ぶりに帰省して墓参りに行ってまいりました。
墓なんてもんは別に単なるモニュメントで、特に意味の無いシロモノ、と思っている不信心者の俺ですが、神棚も仏壇も無い部屋に暮らしていると、手を合わせて何かを拝むなんてことは日々まったくやらなくなるわけで。たまにゆっくり心を落ち着けて今は亡き祖父母や親戚のことを思い出したりするのも悪くない、とは思いました。まあ雨が降ってたんで、あまりゆっくりもしませんでしたが・・・。

えーと、本当はここからもう一つの甲子園の話を書こうと思っていたのですが、長くなっちゃったんでまた明日書きます。どっちかというと野球の話は単なるマクラで、短歌甲子園の話を中心に書くつもりだったのですが。計画性の無いのが俺の悪いところでもあり、サービス精神が迸って余計なことまで書いちゃうところが憎めないチャームポイントでもあり、そんな自分がたまらなく愛おしかったり。たまに殺したかったり。
内容の無い文章を延々と書く能力だけは他人に遅れをとらないと自負しているのですが、就職に役に立たないんだよお。

まあ、いいや。

短歌甲子園の話は今夜にでも書こうと思います。仕事ください。無理ならお金だけでもいいのでください。いやまあ気にしないでください。おやすみなさい。

「食」にまつわるあれこれ

おばんです。

長らくご無沙汰しております、山本左足です。

ブログをお休みしてからというもの、精神的・金銭的に非常に追い詰められた状態で、一時期どん底まで落ちぶれましたが今は若干回復してます。とはいえ状況そのものが改善したわけではないので、まあ、一進一退ですが。頑張れ俺。

さて、そんな中、明け方に酔いどれて、Twitterに「なんかテーマをくれたらブログ書く」的なことを呟いたところ(本人泥酔していてその前後の記憶が無い・・・)、フォロワーさんから「食べるというテーマで何か」というリクエストを頂いたので、久々に何かしら書いてみようと思います。

短く簡潔に、というのが苦手なので、思いついたことをだらだらと書こうと思います。

えーと・・・、夏ですね。
夏と言えば夏野菜。皆さんは何が好きですか。俺はトマトが好きです。
実家は農業をやっていて、メインは米なのですが、他に小さな畑もあって、小規模ながら様々な野菜を作ってました。夏野菜ならトマトのほかにナスやキュウリ、とうもろこしにかぼちゃなど。西瓜も何個か。いずれも家族で食べる分くらいですが。他にはニンジンやジャガイモ、大根なんかも作ってましたね。
ちなみに最近父の趣味(?)で肉牛の飼育も始めたらしく、何なら自給自足できそうな勢いの我が実家。
子どもの頃はトイレが汲み取り式だったので、肥料も自家製でしたね・・・w

さて、そんな恵まれた環境にあっても、好き嫌いは如何ともし難いものです。俺は体質的にアレルギーなども無く、食べられないものもほとんど無いのですが、ただ一つ、キュウリだけはどうしても食べられません。単純に味が嫌い(全国のキュウリファンの皆さんごめんなさい)。それが母には理解できないらしく、学生の頃、何度言っても仕送りにキュウリを混ぜてくるのには正直うんざりしておりました。折角送ってくれたのに、食わずに捨てていたのだよ。済まぬ。

ところで、一人暮らしが長くなって、大抵の料理は自分で作れるようになりましたが、その切っ掛けのひとつはキュウリが食べられない、ということだったりもします。ポテトサラダとか、キュウリさえ入ってなければ大好物なので。そういう意味では好き嫌いがあるのも悪くない・・・ことはないですね、やっぱり。何でも食わなアカンよ。

好き嫌いは別として、信仰や信条で特定の食べ物を口にしない、という人も居ますね。
肉や野菜を食べない所謂「菜食主義者」は、俺の子どもの頃は全部一括りで「ベジタリアン」と言っていたものですが、最近では様々に細分化されているようです→ベジタリアニズム
いろいろありますね。考え方はひとそれぞれ。個人的には、動物性のものをまったく口にしないというのもあまり健康に良くないんじゃないかと思うのですが・・・。

そもそも、野菜が獲れないようなところに暮らしている人たちも居て、そういうところでは、狩りをした獲物の生肉を食ってビタミンを補給していたらしいです。アザラシの腹の中に海鳥を詰めて作る発酵食品「キビヤック」なども有名ですね。食べるときは排出口(おしり?)に口を付けて発酵した中身を啜るとか・・・。勇気が要る。
そういえば、かつてシベリア大森林を横断して一大帝国を築いたロシア人たちは、本国からの補給の困難さ故に野菜や果物を口にすることが出来ず壊血病に罹るひとが多かったとか。ヨーロッパ人である彼らには生肉を食う文化が無かったのですね。全部焼いて食っちゃったからビタミン不足になった、と、昔何かで読んだ記憶が・・・(たぶん司馬遼太郎の書いた何かだったと思います。曖昧で申し訳ないw)

そんなこんなで、食文化というのも生活環境に左右されるものだから、一概に「動物を殺して食べるなんて野蛮!」というような、一部動物愛護団体の主張なんかは正直的外れだと俺は思います(まあ最近はかなり大人しくなってるようですが)。もちろん絶滅危惧種なんかは食べちゃいけない。それは当然として、例えば「可愛いから食べちゃダメ」とか「賢いからダメ」なんていうのはそれこそ差別的だと思う。ブサイクでバカなら食べ尽くしてもいいのか?・・・って言いたくなるんですよね、捻くれ者なんでw

獲りすぎなければ何を食ってもいいと個人的には思います。犬でもクジラでも昆虫でも。俺は愛犬家ですが、機会があれば犬肉は食べてみたいですね。クジラは昔給食で食べました(最後(?)のクジラ世代)。昆虫は、と考えて思い出しましたが、小学生の頃、田んぼでイナゴを捕まえて、その日のうちに佃煮にして食べましたね。取れたてのイナゴの味は格別・・・だったかどうか、定かではありませんが(佃煮はある程度寝かしたほうがいい気もする。何となくですが)。
しかし、考えてみると当時はヘリコプターで農薬散布なんかやったりしてたわけで(今もかな?)、衛生面ではちょっと問題ありな気もしますね・・・w

なんか思った以上にだらだらしてきましたがw とりあえずの結論としては、
食うために動植物を殺すのは仕方が無い。
どうせ食うなら出来るだけ美味しく頂きたい。
好き嫌いはなるべくしないようにしたい。
食わない動物の命はいたずらに弄ばないようにしたい。

と、まあ、そういう感じですね。

このブログは一応短歌のブログなので、ちょっと書いたら短歌の紹介に移る予定だったのですが、長くなってしまったのでまたそのうちにw

生きていたらまた会おう!

噂では明日世界が終わるらしい 早く食わなきゃカレーの残り

・・・今度はもうちょっと短いスパンで更新できればいいなあ、と思っておりますです。おやすみなさい。

無題

おばんです。

一身上の都合でしばらく更新をサボり気味の山本左足です。
どうも春から収入が激減する見込みで、再就職先が見つからなければ夏までに餓死、という感じになってきました。ウケる。

しばらく生活も精神も不安定極まりなくなりそうなので、ブログの更新もまだしばらくはしない、というか出来なそうです。そうは言いつつやるかもしれませんが。多分しない。しないと思う。しないんじゃないかなあ。まあちょいと覚悟はしておけ。

毎年10枚くらい履歴書を書いて、それがすべて紙くずになった実績から考えると、夏までにってのは相当ハードルが高い。が、何とかしないとリアルにこの世から早退するはめになりそうなんで、まあ、何とかしますw

不思議と短歌はぽつぽつ出来る。追い詰められて脳が活性化しているのかしら。今さらって感じではありますが。もっと金になる能力がほしかった・・・。

起承転転転々々てんてんと足跡だけが続く雪原

そんなわけで、また、そのうちに。おやすみなさい。

これが山本左足の最期の言葉だった・・・、なんてことにならないよう頑張ります。では、また。

映画『そこのみにて光輝く』の感想

おばんです。

今日は映画の感想。といっても既にツタヤで一週間レンタルになっていたものなので、半端じゃない今さら感ですが。しかも気づいたらキネマ旬報の年間ベスト1にもなったそうで、いよいよもうこんなところで俺が語るようなことは何も残って無いんですがw まあ、心に響いちゃったので。

舞台は90年代(と明言されてないですが、原作だとそうらしい)の函館。安アパートで一人暮らしの訳あり無職・佐藤達夫(綾野剛)は、パチンコ屋でやたら人懐こい若者・大城拓児(菅田将暉)と出会う。拓児に「飯食わしてやる」と誘われてついて行くと、行き着いたのは海辺に建つぼろぼろのバラック小屋。達夫はそこで拓児の姉・千夏(池脇千鶴)と出会い、やがてお互いに惹かれ合っていくのだが・・・、と、出だしはこのような内容。

まず、拓児と千夏の家庭環境がもう絵に描いたような極貧。脳梗塞で倒れて以来寝たきりの父、その看病に疲れ果てて無気力無感動の置物みたいになっちゃってる母。喧嘩で刑務所に入っていた拓児は現在仮出所中の身で、一家の支えである千夏は週三日の工場勤務だけでは生計をたてることが出来ず、場末のスナックで体を売るようなことまでしている。
その金額が一回(?)8,000円!というのにちょっと驚いたんだけど、よく考えたら相場が分からないんで何とも。いくら何でも安すぎると思うのだが。しかしまあ何と言うか、千夏の境遇は江戸時代の遊女(いやそれよりも宿場町に居た飯盛り女か)のようでもあり物悲しい。しかもその現場を達夫に見られてしまったりするのだから、もう・・・。

一方主役の達夫はというと、かつて仕事中の不手際で同僚を死なせてしまい、その自責の念から自暴自棄になってしまっているやさぐれ男なのだが、若干悲劇の主人公ぶってる感じもなくはない。そんな達夫が、自分より悲惨な境遇の姉弟と知り合い、ふたりの為に何かをしたい、という思いから過去のトラウマを克服していく、というのが達夫の側のストーリーなのだが、正直、千夏と拓児のストーリーのほうがメインになっている感は否めない(とはいえそれは物語が要請する必然でもあると思う。後述)。

いやもう、とにかくメインキャストの3人が素晴らしいのですよ。特に池脇千鶴はもはや神々しくさえある。単に演技力があるとかいうレベルではなく、仕草や表情、果ては身体つきまでも(まあこれは偶然の産物かもしれないがw)千夏というキャラクタと完璧に一体化している。『ジョゼと虎と魚たち』が女優池脇千鶴の完成形かと思っていたが、まだ先があったかと。凄い。
綾野剛の場合は「当たり役」というべきかもしれない。正直演技力は今ひとつという気もしなくもないが(ファンの人済みません・・・)、不器用そうな感じ、所在無げなたたずまい、ぶっきらぼうなセリフ回しなどが、奇しくも達夫という人物を演じるのにこの上なく嵌まっているのだ。
そして菅田将暉。馬鹿でいい加減でやんちゃだけど憎めない拓児を好演している。正直名前ぐらいしか知らなかったのですが、近作でファンになりました。良い。
あと一人、造園会社の社長を演じた高橋和也も挙げておきたい。妻子持ちでありながら千夏と不倫関係を続けるゲスな男を演じているのだが、これがもう本当に名演。ちょっとしたセリフや仕草が妙にリアルで、(ああ、こういう奴いるよなあ)という感じ。出てくるだけで厭な気分になる(褒め言葉)。自分の性器に唾を付けてレイプ同然に千夏を犯すシーンとか、もう最高にゲス。ゲスの極m・・・言わねーよ。何気にストーリーの中でも重要な役割を果たす人物。

性器云々の話が出たのでついでに言っておきますが、全編に渡って性描写が頻出します。特に寝たきりの父親の性処理を娘の千夏が行うシーンとか、直接的なカットは少ないもののなかなかエグいです。そこは注意が必要。家族そろって見るような映画ではないです(言うまでもないことですがw)

さて。以下は物語の直接的な内容からはちょっと離れるかもしれない、感覚的な感想(とか言いつつ結構ネタバレしてますw ご注意ください。映画を見てから読むのを推奨)。

物語の舞台は函館市となっているが、実際は、それよりもっと寂れた、どこか、この世の果てのような海辺の田舎町、という雰囲気がある。真夏なのに紫陽花が咲いていたりする描写も、どこかファンタジーを感じさせる。そしてこの町では時間が止まっている。永遠に続く夏、永遠に続く日常。地獄のような、この世の果て。
この映画の真の主役は、実は、この「町」そのものではないか。
千夏は、町に呪縛されている。寝たきりの父、無気力な母、仮釈放中の弟。彼女には彼らを見捨てることが出来ない。
高橋演じる造園会社社長・中島はこの町の顔役であり、町そのものの象徴のような存在である。当然、千夏は中島からも逃げられない。未来を諦め、夢を捨てて、時間の止まった町の中に己のすべてを埋没させようとしている。

達夫は町の外からやってきた「よそ者」である。彼は町のルールに囚われない。千夏に夢を与え、中島に歯向かい、拓児を山へ(町の外へ)連れていくと約束する。達夫のストーリーがこの映画の本筋にならないのは必然である。彼はこの世界における「招かれざる客人」だからだ。主人公というよりも、トリックスター的な役回りなのだ。

達夫の目は過去だけを見ている。千夏は時が止まったまま現在に埋没している。その二人が出会うことで、はじめてお互いの「未来」に目を向けることになる。

もう一人、達夫や千夏よりももっと無邪気に自分の未来を夢見ている男がいる。拓児である。登場人物の中でただひとり、彼だけは、自分の都合ではなく常に他人のために行動している。家族のため、友人のため、そして中島のためにも。はじめ、彼は中島の部下として、「町」に奉仕する者として登場する。しかし徐々に立場を変え、達夫と中島を引き合わせて以降は、町の象徴である中島の元を離れ、よそ者の達夫と接近していく。彼の行動は町に変化をもたらし、それが、やがて夏祭りの悲劇へと繋がっていく。彼が仮釈放中の身であることは偶然ではない。彼もまた「よそ者」なのだ。

自分と家族の明るい未来を無邪気に夢見る拓児もまた、町のルールの外側にいる(トリックスターという意味では、むしろ彼のほうがその称号に相応しいのかもしれない)。彼が中島をアイスピックで襲うのも、そしてそれが夏祭りの夜であるのも、もちろん偶然ではない。彼のその行動によって、止まっていた時計はまた動き出し、そして、夏が終わる。よそ者の一人である拓児はまた他所へと姿を消す(自首しに行くときの軽やかなステップは印象的である)。残された達夫と千夏に「未来」を託して。海辺にたたずむ二人を朝日が照らすラストシーンは、本当に美しい。タイトルの示す「そこ」とは、「町」のことでもあり底辺の「底」でもあると思うのだが、何よりもあの場面、あの一瞬を指し示す言葉なのだろう、と、そう思った。
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