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うたらばブログパーツ短歌投稿作のまとめ

おばんです。

相変わらずドス黒い想念ばかり浮かんで消える毎日。

定年退職してから趣味で肉牛の飼育を始めた父が、セリで盛岡に来たついでに、見るからに高級そうな霜降り肉を置いていったので、今晩はそれを焼いて食べました。「旨い!旨い!」と、食べてる間はテンションが高かったのですが、食べ終わってしばらくするとまた気分が落ち込んできて、(俺のような人間があんな高級な肉を食べてはいけないんじゃないか。味も分からないのに。飼育した人にも申し訳ないし、何より命を冒涜しているのではないか。いや、それを言うなら高級か否かに限らず、俺が他の動物を殺して食うのは間違ってるんじゃないか。俺が死ねばいいのに)という気分になってきて、最終的に食べた牛肉をほとんどトイレで吐いてしまった。心が弱すぎるんだな、きっと…。

でもすき焼きも作っちゃったんで明日も高級肉を食うけど。

そんなわけで今日もブログを書く気分じゃないので、いつもの投稿作品をまとめたやつです。今回のテーマは「中」です。

手も触れず僕の心にしあわせを君は生み出す手品のように

真ん中で割れるアイスを割らないで一人で食べて今日も楽しい

国中のセクシー女優をはべらせて例のプールで泳いでみたい

怖くない幽霊だなと思ったら胸に「研修中」のプレート

今もまだ一人で汽車を待っている作中主体の孤独を思え

風のなか微かに揺れるブランコがあなたのようでじっと見ていた

家中の引き出しという引き出しを開けて未来を探したあの日


今回は7首。「今もまだ~」が採用になりました。完全新作が採用されたのは久々だったので嬉しい。作中主体という言葉、覚えたての頃は(なんかカッコイイかも)と思って使ってましたが、今はほとんど使いません。たまに短歌の中で使うぐらい。

僕じゃなく作中主体なんだろう君を本当に好きだったのは

とか。ま、どうでもいいか。

ついに酒を買う金も無くなって途方にくれております。眠れない。でも寝ないと明日が来てしまう(もう来ているけど)。しょうがないから眠くなるまで短歌でも作ってることにします。おやすみなさい。

アイアイ

解答欄ずっとおんなじ文字並び不安だアイアイオエエエエエエ くどうよしお

うたらばブログパーツ短歌「解」より

おばんです。

相変わらずおちんこ見がち、もとい落ち込みがちな毎日を過ごしてますが、今日はちょっと嬉しいニュースがありました。

うちの甥がスポーツ推薦で無事地元の高校に合格したそうです。良かった。

兄のところには子供が三人居て、長女は舞踊の大会で優勝して地元のテレビで特集されたりしていたし、次女は卓球でインターハイに出場したりと優秀で、しかもどっちも現役で国立大学に合格するほど頭も良かったものですが、歳の離れた末っ子長男の甥は甘やかされて育ったせいかどうもパッとしない…、いやスポーツは推薦されるぐらい優秀だし真面目にやってるんですが、勉強のほうがまったくアレで。病気療養と称して年末年始一ヶ月くらい実家に厄介になっていたのですが、その間勉強しているところをついに一度も見なかったぐらい、どうやら本格的に勉強嫌いの様子。要らぬお世話と知りつつも「勉強見てやろうか」と度々声をかけたのですが煙たがられるばかり。いくらスポーツ推薦とはいえ大丈夫かしら、と心配していたのですが何とか引っかかったようで、本当に良かった。

叔父というのは、親戚とはいえ子供の教育には別に関係が無いので、ただただ可愛がってればいいだけの非常に楽でおいしいポジションだと思う。優秀だろうがぼんくらだろうが、俺にとっては別にどうでもよくて、どの子も同じぐらい可愛いんですが、姉が優秀だと劣等感を抱いたりしないものか、と、兄弟のなかで一番ぼんくらだった俺としてはその点がちょっと不安に感じたりもします。まあ、今のところ姉二人とも仲良くやってる感じなんで、余計な心配かもしれませんが。男兄弟と姉⇔弟、という関係とでは感じ方が違うのかも。あとは弟(妹)が居ないというのも大きいかもしれない。俺の場合、二歳下の弟と比較されて「お前は劣っている」と家族に言われ続けたのがキツかった。なので俺としては、今日このブログに書いたような「姉二人は優秀だったのに」的なことだけは絶対に言わないように気をつけて接していたつもり。

「絶対叱らない(危険な事をした時以外)、絶対貶さない、とにかく褒める」というのが、若い頃に決めた小さい子どもに接するときの自分ルールで、それは一応守れていた筈だと(自分では)思ってます。これが自分の子どもなら当然叱ったり、場合によっては叩いたりする必要もあると思いますが、叔父にはそんな責任は無いのでただただ可愛がる。子ども好きにとっては一番いいポジションですね、きっと。

さて今日の短歌。この短歌の一番のポイントは四句目にあると思うのです。結句の「オエエエエエエ」が嘔吐の擬音にもなっていて、そこに工夫があるわけですが、でも、例えば四句目を「とても不安だ」とかに置き換えたら、この歌の良さは半減してしまう。結句の工夫が逆にあざとく感じられてしまうのです。上の句はほぼ定型(一句目は六音ですが、語尾の「ん」は発音的に意識されないことが多い。「新幹線」なんかも、五音に感じられませんか)に収まっているのに対し、四句目は八音になり、かつ、意味の上でも「不安だ/アイアイ」と句の途中に切れ目が生じているのですが、その定型が崩れるさまがまさに「不安だ」という感情とリンクしていて良いと思います。改悪例で出した「とても不安だ」だと、定型に沿っているにも関わらず(というか、それゆえに)不安さが出ない。そして「アイアイ」が良いんですよ。これが前フリになっているおかげで、大オチの「オエエエエエエ」が最大限に生きる。きっと誰でも経験している、いわゆる「あるあるネタ」みたいな短歌ですが、単に「そういう事あるよねー」で終わらせないエンターテイメント精神が素晴らしいです。

ちびっこだった甥も春から高校生ということで、俺もいつまでもおちんこ出てばかり、もとい落ち込んでばかりも居られないと思ってます。もうちょっとしっかりしなければ。いつか甥や姪に見られるかもしれない記事を書くときに限っておちんこおちんこ言っている場合じゃないんですよ、まったく。俺も下ネタに頼らないエンターテイメント性を身につけたい。

というわけで今日はここまで。おちんこ出るときは美味しいものを食べてたくさん寝るのが一番、ということで、とりあえず飯を食います。では、おやすみなさい。

おいとまをいただきます

おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は 斎藤史

歌集『ひたくれなゐ』より

おばんです。

ここ一週間ばかり精神的な落ち込みが激しくて、短歌も詠めない毎日です。昔ならこういう時は「もう嫌だ死にたい」みたいな短歌がたくさん出来たんですが。今はもう、真っ白な頭と無駄に大きな身体をただゆらゆらさせているだけの生き物です。

こういう気分の時はとにかく「死にたい」という言葉が口をついてしまいます。アレです、寒いときに「うう、寒い」と言っちゃうのと一緒です。言ったからってどうなるものでもないけど、つい言ってしまう。

宮本輝の小説ほどでは無いにせよ、一日のうちに数十回は死にたくなったりしますね。まあそうそう死にませんが。

宮本輝は若い頃結構好きで読んでましたが、いつからか、若い女性が海外でグッドルッキング・ガイと知り合って恋に落ちる、みたいな(俺にとって)どうでもいい話を書くようになってしまったので、それ以降あまり読んでません。『流転の海』シリーズは面白いという噂を聞いて何冊かまとめ買いしたんですが、結局そのまま本棚の肥やしになってますね。いつか読もう。個人的には初期の作品が好きです。『蛍川』とか『泥の河』とか『幻の光』とか(是枝裕和監督の映画版も良かった)。『青が散る』や『春の夢』、『優駿』も好きな作品。『五千回の生死』は正直良く覚えてませんが(笑)

にしても何故これほど鬱屈した気分になるのか、ちょいと自己分析してみたのですが、入院していたせいで収入が途絶えているのが一番大きい要因だと思います。みんなビンボが悪いんやな。他には特に嫌なことや悪いことがあったわけではないので、まあそのうちに元通りになるでしょう。それまではのんびり落ち込んでいることにします。

掲出歌については、俺がウダウダ読み解かなくても内容に関してはさほど難解ではないと思います。暗いテーマの短歌ですが、作者独特のユーモラスな語り口と平仮名を多用したやわらかな雰囲気でスッと心に沁みこんできます。印象的なのが結句の字余り。ピタッと定型に収まらないところが、何と言うか歌のテーマとリンクしているような気になりませんか。一行の詩のように人生を完結させられればいい。でも長く生きていれば、必ずそう綺麗には収まらない、はみ出してしまう部分が出てきてしまう。そういうことを表している…わけではないかもしれませんが、何かそういう感じを受けます。

『ひたくれなゐ』は昭和51年刊行で、作者が(多分)67歳のときの歌集。夫や母親の看病をせねばならず、大変な苦労をしていた時期のようです。この短歌に込められた感慨は夫や母に向けられたものかもしれませんが、同時に、もはや若くない自分自身の行く末にも思いを馳せたものだったのかもしれません。

臨終のときの言葉というのも色々ありますが、「おいとまをいただきます」というのはなかなかカッコいい気がする。覚えておこう…って、一人暮らしだと言っても誰にも伝わらない可能性がありますが(何となく、最期は孤独死しそうだと思っている)。あ、そういえば山田風太郎の『人間臨終図巻』が部屋に見当たらないことに最近気づいたんですが、誰が盗った?今名乗り出たら先生怒らないから。

さて、そろそろ寝ます。明日は今日より気分が落ち着いていればいいんですが。おやすみなさい。

やな気分でも無理矢理行くのさ
気分なんかほっといたって良くなるさ (アナログフィッシュ『行くのさ』より)

バレンタインはロッテの元監督

おばんです。

昨日はバレンタインデイでしたね。皆さま無事チョコレートは貰え(渡せ)ましたか。

毎年この日になると、俺の中の思春期の亡霊が騒ぎやがるので困ります。

さて。今日はバイトの子が「バレンタインって差別だと思うんすよ!」と吼えていたので、(そうかー、チョコ貰えなかったのかー)と思いつつ、そのことについてちょっとだけ考えてみようと思います。

バレンタインデーが差別であるかないか、という点については、そんなもん、差別に決まってるじゃないか、と思います。チョコレートを貰える人と貰えない人がいる、それが差別でなくて何なのか。

しかし、世の中そんなもんだろう、とも思うのです。競走すればトップとビリが出る、勉強すれば天才と馬鹿に分かれる、面白いやつもいればつまらないやつもいる、オシャレな人もいるしダサい人もいる、それと同じようなもんでしょう。中にはビリでつまらなくてダサいやつも居るわけです。…俺だ(学力は普通)。

本人ではどうにもならない点で差別が生じるのは良くない。生まれがどうの、性別が何だ、肌の色がどうした、とか。そういうのは良くない。家が貧乏だから進学できないとか、障害があるから仕事が無いとか、そういうのも、出来る限り何とかして欲しい。

だけど、能力によって差が生じてしまうのは、これはもうしょうがない。徒競走で全員並んでゴールさせたりとか、テストの結果を非公開にしたりとか、そんなのは馬鹿馬鹿しいと思う。そういう風にして「出来ない奴」のほうの水準に合わせるのが正しいというなら、世の中のイケメン全員に逆整形手術を受けさせて俺と同じ程度の顔面にしろよ。じゃないと不公平だろ。・・・というのはもちろん冗談ですが。

努力ではどうにもならない世界に俺たちは生きている。外見だけではありません。運動能力だって勉強だってそうです。どんなに頑張ったって100m10秒で走るのは無理だし、東大に入るのも無理だ。だからって終わりでも何でもなく、スキマ産業的に、自分の居場所をどこかに見つけて生きていくことができれば、それでいいじゃないか、と思います。

だから、バレンタインデイがいかに差別的なイベントであろうと、それはもうしょうがない事と諦めるしかないんじゃないかと。この世に数限りなくある差別のなかのひとつに過ぎません。華麗にスルーして、自分が輝ける瞬間をいつまでも待ち続けるのみ。いつかチョコをくれる人が現れるかもしれないし、現れなくても…、ね、まあ、しょうがないよね。

美醜の感覚は個人差が大きいので、美男美女だから得だとは一概に言い切れないところもありますが、それでも、100人中90人が美しいと思う顔に生まれた人と、90人が不細工だと思う顔に生まれた人とでは、冗談でなく住む世界が違うだろうと思います。美男子の見る世界がどんなもんか、単純に興味はありますが、それを見る術はない。独りワイルドサイドを往くのみ。

大丈夫、モテなくて死んだ人は居ない(自殺を除く)

それはそうと、以前ヤフー知恵袋か何かで「バレンタインデイを祝日にすべき」というような意見を見て、えらく感心した記憶があります。もちろん回答者の方も冗談半分で言っているのだとは思うのですが。バレンタインを祝日にすれば、チョコを貰う(渡す)相手の居る人は勝手にデートでも何でもすれば良いし、そうでない人は家に引きこもっていてもいい。祝日だと思えば穏やかな気持ちで過ごせるだろうし、何より、学校や職場に向かう際に否応無く抱いてしまう淡い希望と、それが案の定無に帰した時の砂を噛むような気持ち、あれを味わわなくて済むというのが大きい。自分がモテないことを自覚して、不細工沼で泥水をすすったり苔を食べたりして大人しく過ごしている心優しきモンスターたちが、年に一回、自分の境遇の惨めさを改めて思い知らされて、沼の水がちょっとしょっぱくなる日。バレンタインはそういうイベントと化してしまっている面がありますが、休日になればそれもだいぶ改善されるはず。バレンタインデイは祝日にしましょう。

ところで女子にとってはバレンタインってどういうイベントなのだろう。まあ男子同様「人による」と言うしかないんだろうけど、そんなに楽しいばかりじゃないですよね、きっと。渡したい相手に既に彼女が居たりとか。切ない。そんな時は俺にくれるといいですよ。俺は義理チョコ撲滅論者ですが、義理の欠片も無い人から人情でチョコを貰うぶんには随時受け付けております。バレンタインデイに限らず1年24時間受付中です。よろしく。

差別するとかされるとか、そういう話は非常にデリケートなんで出来れば避けたい話題のひとつなんですが、思いつきでちょっと書いてみました。そんなに複雑なことは考えてなくて、単に、頭がいい人はどんどん出世して世の中を豊かにしていけばいいし、運動が得意な人は金メダルを取れればいいなあと思うし、美男美女はモテればいいじゃない、と思う、という、単にそれだけの話です、はい。

さすがにもういい歳なので、バレンタインだからって一々反応したくないんですよ、本当は。いい加減思春期の亡霊を成仏させたくて、お経代わりにこの記事を書いてみました。首尾よく浄化が済めば、来年以降はグダグダ言わなくなっているはず。乞うご期待。

では、おやすみなさい。

初めて買った歌集

おばんです。

ちょっと前にツイッターで「初めて買った歌集は何か」という話題が出た際、いくつか候補を思いついたものの、どれが最初に買った歌集か結局思い出せなかったのが気になっていたので、昔書いていた日記を引っ張り出してきて確認してみました。

それによると、2001年の5月12日に友人宅で枡野浩一『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房)を読んだのが短歌に触れた最初で、その日、友人にそそのかされて何首か短歌を詠んだのが始めたきっかけのようです。その時詠んだ短歌がどんなのだったかは覚えてません。「一句出来たよ」と言って友人に「一句じゃなくて一首だろうが!」と叱られたことは覚えてます。ちなみにその時俺をそそのかした友人が、後に「ユンボと水平線」で歌葉新人賞の候補になった瀧音という奴で、そいつは当時すでに600首くらい短歌を詠んでいたらしいことが日記に残ってました。そういえば、奴が俺に「短歌は本名で詠んだほうがいい」という考えを植え付けた張本人でもあります(苦笑) それと、「短歌結社ネガティヴ」が誕生したのもこの日のようです。といっても、酒が入った勢いで勝手に適当な事を言い合っていただけで、活動の予定なんて何一つ無かったのですが。

ちなみにその翌日には青森市のクォーターというライヴハウスでくるりのライヴを見たらしい。羨ましい。もう一回見たい。帰りに瀧音カーのガソリンが無くなり、十和田市の街中で、既に閉店後のガソリンスタンドで店員に頼み込んで2000円分ガソリンを入れてもらった、という話も書いてありました。(ああ、そんな事もあったなあ)と何となく思い出せるのが凄い。日記は残しておくべきだなー、と思いました。

ちなみに『かんたん短歌の作り方』は現在ちくま文庫版が出ているようです。そっちもそのうち買わなきゃ。とてもいい本。

その後はしばらく短歌の話が出てこない。フェリーニの『8 1/2』が良かったとか北野武の『ブラザー』のラストがイマイチ気に入らないとか、盛岡フォーラムに『A.I』を見に行ったとか『17歳のカルテ』が名作だとか、映画の話ばかり延々と書いている。他は友人と麻雀したとか酒飲んだとかそんなのばかり。

8月19日に『千と千尋の神隠し』を見たあと、友人たちと5人で恐山観光に行っているらしい。おぼろげな記憶によると、蝦名泰洋『イーハトーブ喪失』(沖積舎)を買ったのは青森の古本屋だったような気がするので、この時期に買っているのかもしれないんだけど記録が無い。無念。

サーカスはどうしてここへ来たのだろうみんな大人になった日暮れに 蝦名泰洋

歌集『イーハトーブ喪失』より。この歌集は電子書籍版が出ていたように記憶していたのですが、Googleで検索しても見つけられませんでした。勘違いだったろうか。

9月にはアメリカで同時多発テロ事件が起きています。が、俺は相変わらずで、公務員試験に落ちたりとかスーパーマーケットの採用面接に落ちたりとかしていますね。今は無き古本屋で藤子不二雄Aの『まんが道』中公愛蔵版をまとめ買いしたとかいう記述にまじって、『短歌雑誌ネガティヴ』零號が出たことがサラッと書いてありました。

その後、何か面倒くさくなったらしく、しばらく日記が途切れ途切れになっています。翌年の1月10日の記述に「『ネガティヴ』-1號発行。今は短歌の話をしている時が一番楽しい」とあったので、その頃には短歌にハマっていたようです。あと友人に借金したことが書いてある。返したかどうかは記憶に無い…。

2月、小林恭二『短歌パラダイス』(岩波新書)を読んで「短歌の読み方(そして詠み方)の幅が広がる名著」と感想を書いている。一流の歌人が一堂に会して歌合せをしたときの記録。短歌だけでなく、その様々な解釈も合わせて読める、とても楽しい本。長く絶版になっていたらしいですが、今は多分復刊されて入手しやすいはずです。

更に同時期、歌集を二冊購入している。林あまり『ベッドサイド』(新潮文庫)俵万智『かぜのてのひら』(河出文庫)。その後、4月に同じく俵万智の『サラダ記念日』(河出文庫)『短歌をよむ』(岩波新書)を読んだことが書いてあって、その後は『ネガティヴ』の感想文を書くのがダルい、とかそんなことばかり。

誰よりもきれいな死体になるだろう
それが理由で愛した少女        林あまり

ひかれあうことと結ばれあうことは違う二人に降る天気あめ 俵万智


それぞれ歌集『ベッドサイド』、『かぜのてのひら』より。

とりあえず、個人の歌集として最初に買ったのは、記録を見る限り『ベッドサイド』と『かぜのてのひら』のようだ、という結論に達しました。当時、読書日記みたいなものも別に書いていて、読んだ本の感想などはそっちに書いていたはずですが、それが残っていないので詳細は不明のままです。枡野浩一『ハッピーロンリーウォーリーソング』(角川文庫)のほうが早い気もするんですが、いつ買ったか分からないままでした。無念。穂村弘『シンジケート』(沖積舎)は更に数年後、確か花巻市の古本屋で見つけたはず。『ラインマーカーズ』(小学館)が2003年5月発行なので、たぶんそっちを先に読んでいると思います。最初期の頃に読んで影響を受けた歌集というとその辺ですね。当時としてはかなりベタなラインナップではなかろうか。篠弘編著『現代の短歌 100人の名歌集』(三省堂)はいつ出たやつだっけ、と思って調べたら2003年3月1日発行でした。この本もかなり熱心に読んだ記憶があります。

「レモネードレイン」と呼べば酸性雨すらも静かに叙情していく 枡野浩一

子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向って手をあげなさい」 穂村弘


歌集『ハッピーロンリーウォーリーソング』、『シンジケート』より。

昔の日記は手書きなので読むのに非常に疲れる。字が下手すぎて、古文書を解読しているような気分になります。こんな機会でもなければ滅多に読まないのですが、たまに読むと面白いので、皆さんも書いておくといいですよ。そういえば、

優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる 俵万智 『チョコレート革命』(河出文庫)より

という短歌について、<この短歌を不倫の歌と読むことは自由だが、「この時期作者は不倫していたらしいから、どうせこの歌もそういう内容の歌なんだろう」と読むことはおかしいんじゃないか。作品から作者の人生を想像するのはいいが、作者ありきで作品を読み解くのは間違っていると思う>と2003年の日記に書いてあって、何と言うか、俺は10年以上前から言う事がまったく変わってないなあ、と思ったりもしました。もうちょっと成長したいものです。あと、作品論とは別に作者論も当然あるべきなので、作者の経歴と照らし合わせて作品を読み解くことが絶対にいけない、などとはもちろん俺も思ってません。念のため。

では、そろそろ寝ます。おやすみなさい。
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